"イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べてしまい、彼を祝福してしまった。彼は必ず祝福されるだろう。」"
創世記 27章33節
ヤコブが父イサクをだました直後に、兄のエサウが獲物を仕留めて帰り、父のもとにおいしい料理を持ってきます。(30-32節)
それで・・というのが、今日の箇所です。
先の祝福はだまされてやった祝福であることがわかりました、と同時にそれは軽々しく変更のできるものではない、厳粛なものでした。
それは神の御名による祝福、そしてアブラハムに与えられた神の約束の流れでの祝福でした。
それはイサクの人間的な願いからくる遺言としての祝福ではなく、預言 (神からのことば) として与えられたものでした。
彼は必ず祝福されるだろう・・。
この一連の出来事を読むとき、私たちはそこにある理不尽さに、どうしても目が行ってしまいます。
結局ヤコブはそのままおいしい汁を吸うって話か・・と。
しかしヤコブの歩みはこのあとの逃避行に始まり、最後の死に至るまで、それはとても厳しいものでした。
神はヤコブを、それなりに扱われたんですね。
それはまさしく、罪人が恵みによって救われ、そこから神に取り扱われながら成長していくクリスチャンの信仰生活の「型」その物を見ているようです。
ではこのあとのヤコブの生涯を見て行きましょう。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)