" さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。"
創世記 37章5節
ヨセフが兄たちに嫌われるようになっていたところに、この夢の話が出てきます。
そしてこのことによって、兄たちはますます彼を憎むようになったというのです。
その夢とは、皆が畑で束を作っていたら、私(ヨセフ)の束が突然起き上がり、まっすぐに立ち、そして「兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだ」というものでした。(6-7節)
こんな話をそのまま兄たちに告げるなら、その関係がますます悪くなることくらい、ちょっと考えればわかりそうなものなのに、ヨセフは臆面もなく兄たちにその話をするのです。
もしヨセフがこの話を心の奥にしまっておけば、その関係はそれほど悪くはならなかったかも知れません。
しかしそうだとしたら、エジプトにおけるヨセフの奇跡的な出世と、ヤコブ一家のエジプトへの避難という話はあり得ないということが、このあとの話の展開からわかります。
ヨセフの浅はかさなくして、この話はあり得なかったんですね。
主はそのご計画を果たすためには、人の愚かさをも用いるというパターンがまた出てきました。
私たちは、神の前に、良い人であろうとしても、それはもともとかなわないこと・・それが神のストーリーの大前提なんですね。
そして、そんな愚かで罪深い私たちのすべてをカバーして、私たちに祝福をもたらす・・これが神様のなさり方、すなわち「恵み」なんです。
その一番大きなしるしが、あの御子イエス・キリストの十字架と復活なんですね。
神のなさることは、ただ「恵み」の一言に尽きるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)