" 再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。"
創世記 37章9節
兄たちはヨセフの最初の夢の話を聞いて、「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」と言いました。(8節)
まさにヨセフが見た夢は、そうとしか考えられないようなリアルな夢でした。
そしてその後ヨセフはさらに別の夢を見て、それを兄たちに告げた・・それが今日の箇所です。
太陽と月と十一の星・・それはまさに、父と母とヨセフを除いた十一人の兄弟を指すことは明白でした。
今度は父と母までが「私を伏し拝んでいた」と、ヨセフは言ったのです。
それでヨセフに対する兄たちの憎しみは、決定的なものとなります。
ヨセフは空気を読まない、末から二番目で一番可愛がられていた子に過ぎませんでしたが、主はそのヨセフを「選びの器」とされ、そのご計画を実現される・・、そのことがこのあと最後の50章まで、実に創世記の四分の一を費やして記されているのです。
しかしその初めは、ヨセフがこのあと非常な苦しみと悲しみの中に置かれるという出来事でした。
結論から言ってしまうと、主はとてもその役を果たすには相応しくないような者を選ばれ、その者を苦しみの中に放り込み、そうして整えられたその者を用いてみわざを成し遂げられる・・、これこそが主のなさり方バターンなんですね。
ヤコブもモーセも、そしてパウロも、みなそうです。
私たちクリスチャンも突然苦しみに襲われることがあります。
しかしそこには私たちが想像する以上に大きな意味があるのだということを、ここでは教えてくれているのではないでしょうか。
苦しみは、主から見放されたことのしるしではないのです。
信仰をもって、主を見上げ続けていきましょう。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)