" 彼の息子、娘たちがみな来て父を慰めたが、彼は慰められるのを拒んで言った。「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい。」こうして父はヨセフのために泣いた。"
創世記 37章35節
ヨセフの兄たちはヨセフを殺そうと企みますが、長男のルベンの反対によって、殺さずにヨセフを穴に放り込みます。(23-24節)
ところが、ルベンが何か他の用事をしている間、そこに「イシュマエル人の隊商」が通りかかり、四番目の兄ユダの提案により、彼らはヨセフをこの隊商に奴隷として売り渡してしまいます。
そしてヨセフが着てきた長服に雄やぎの血を浸して、それを父の元に送り届けます。
それで父ヤコブは、ヨセフが獣に食い殺されたのだと確信し、衣を引き裂き、何日もその子のために嘆き悲しみました。(31-34節)
そして言ったことばが、今日の箇所です。
イスラエルの名をいただき、最大の祝福をいただいたはずのヤコブの歩みは、希望を失い、生きる気力もなくすほどの所を通らされることとなったのです。
私たちの信仰生活の中でもそのようなことは、少なからずあるようです。
そこに主の守りの約束があるとは言っても、その時には苦しみでしかありません。
しかし聖書はこのように言っています。
" すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。" (ヘブル人への手紙12:11)
クリスチャンが受ける苦しみ・・、それは主の訓練だというのです。
今のこの苦しみの時を「私が信頼する主が、私を訓練されている」と・・、そのように受け止めるなら、その苦しみの質も変わってくるのかも知れません。
どのようなときにも、主への信仰は捨ててはならないのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)