" 主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。
彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。"
創世記 39章2~3節
39章から再び、エジプトに奴隷として売られたヨセフの話に戻ります。
成功する者・・それは、やることなすこと確実に結果を出す者、というようなことなのでしょうか。
とにかくヨセフはそのことで特別に目立った存在だったようです。
それで「主人の家に住んだ」というのですから、奴隷としては異例の出世です。
そしてヨセフの主人は、「主が」ヨセフと共におられるのを見たというのです。
なぜヨセフの主人には、主がヨセフと共におられるということがわかったのでしょうか。
それは、ヨセフはその時点で、自分には今まで導いてこられ、共におられる神である主がおられるということを主人に話したからなのではないでしょうか。
そうでなかったら、主人はヨセフの能力を賞賛したことでしょう。
しかし主人が見たのは、ヨセフ自身ではなく、ヨセフを成功させてくださる主を見たというのです。
私たちは成功したとき、自分がやったのだと言ってその栄誉を自分に帰(き)そうとするのか、それとも神によるものだと言って神にその栄光を帰そうとする者になるのか・・どちらでしょうか。
ヨセフにはこのあと、とんでもない高い地位が与えられます。
それは今までの長い苦しみのあと、ただ主に栄光を帰すというという者にヨセフが変えられた結果なのではないでしょうか。
もしヨセフがこのことを自分の力であるかのように誇っていたら、ヨセフのその後の歩みは違うものとなっていたに違いありません。
主に栄光を帰すということ・・、それは自分の能力をはるかに超えた、神との歩みへの入り口となるんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)