" 飢饉の年が来る前に、ヨセフに二人の子が生まれた。オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが産んだ子である。
ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。
また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。"
創世記 41章50~52節
最初の大豊作の七年間、ヨセフはその収穫の五分の一を徴収して(34節)、町の周囲にある畑の食料をそれぞれの町の中に蓄えました。
そしてその穀物は量りきれないほどになり、「ついに量るのをやめた」とあります。(48-49節)
そして後の七年の飢饉が来る前に、ヨセフに二人の子が生まれます。
その子たちにつけた名前の由来が記されているのが、今日の箇所です。
確かに、今まですなわち、兄弟によって奴隷として売り渡されたその記憶は本当に自分を苦しめた・・。
そして本当についさっきまで、このエジプトも苦しみの地でしかなかった・・。
しかし神は「父の家でのすべてのことを忘れさせて下さった」「この奴隷となったエジプトで実(みの)り多い者として下さった」とヨセフは言い、二人の子にその名をつけたのです。
神は一挙にヨセフを考えられないような地位に引き上げられましたが、その直前まではただひたすら苦しみの連続だったんですね。
苦しみ、叫ぶ・・それは自分で自分をコントロールできるような状況ではありません。
しかし、主はその先に、とんでもない祝福を用意されていたというわけです。
私たちは苦しむ人に向き合う時、みことばによって希望を捨てずに、ただ主の御名を呼び求め続けよ・・と言うことしかできないわけですが、確かにその先には考えられないほどの祝福があるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)