" アロンは、主がモーセに語られたことばをみな語り、民の目の前でしるしを行った。
民は信じた。彼らは、主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝した。"
出エジプト記 4章30~31節
アロンとはモーセの兄です。
前回の話は、モーセがすでにエジプトに向かって旅に出たときのことなのに、この話はそれより以前に戻っています。
このつじつまの合わない話の流れについては、説明はされていません。
とにかくアロンは、主に語られて神の山に行きます。そしてモーセからすべてのことを聞き、そして二人はエジプトに向かうわけです。
そしてアロンは「主がモーセに語られたことばをみな語り、民の目の前でしるしを行った」・・とあります。
アロンが尻込みしたという様子はどこにもありません。
まさしく、モーセの足りないところをアロンは補い、モーセの手足となり口となったというわけです。
民はそれを見て、主が今自分たちを顧みてくださっているということを実感として受け取り、「ひざまずいて礼拝した」とあります。
モーセは神に聞く人。そしてアロンはそれを行う人。
この二人によっていよいよ神のみわざは具体的に表されていくわけです。
ところで私たちには、誰にも得意不得意があります。
神はそんな私たちを用いるために、アロンのようにそれを補う人をそこに置いてくださるんですね。
さらにキリストの体である教会の中では、一人一人にはそれぞれに異なる賜物(たまもの)が与えられていて、それで互いに補い合って、このからだを建て上げていくというのです。(第一コリント12章参照)
自分と異なる人を、私たちは心の中で排斥してしまいがちです。
しかし、ひとたび視点を変えると、それは自分にとって必要な存在だったというわけです。
" 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。" とは、こういうことなんですね。(ローマ12:10)
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
民は信じた。彼らは、主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝した。"
出エジプト記 4章30~31節
アロンとはモーセの兄です。
前回の話は、モーセがすでにエジプトに向かって旅に出たときのことなのに、この話はそれより以前に戻っています。
このつじつまの合わない話の流れについては、説明はされていません。
とにかくアロンは、主に語られて神の山に行きます。そしてモーセからすべてのことを聞き、そして二人はエジプトに向かうわけです。
そしてアロンは「主がモーセに語られたことばをみな語り、民の目の前でしるしを行った」・・とあります。
アロンが尻込みしたという様子はどこにもありません。
まさしく、モーセの足りないところをアロンは補い、モーセの手足となり口となったというわけです。
民はそれを見て、主が今自分たちを顧みてくださっているということを実感として受け取り、「ひざまずいて礼拝した」とあります。
モーセは神に聞く人。そしてアロンはそれを行う人。
この二人によっていよいよ神のみわざは具体的に表されていくわけです。
ところで私たちには、誰にも得意不得意があります。
神はそんな私たちを用いるために、アロンのようにそれを補う人をそこに置いてくださるんですね。
さらにキリストの体である教会の中では、一人一人にはそれぞれに異なる賜物(たまもの)が与えられていて、それで互いに補い合って、このからだを建て上げていくというのです。(第一コリント12章参照)
自分と異なる人を、私たちは心の中で排斥してしまいがちです。
しかし、ひとたび視点を変えると、それは自分にとって必要な存在だったというわけです。
" 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。" とは、こういうことなんですね。(ローマ12:10)
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)