" モーセはこのようにイスラエルの子らに語ったが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができなかった。"
出エジプト記 6章9節
前回の7節のことばに続いて、主はさらに「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。」(8節) と言われ、モーセはその神の言葉を直接イスラエルの子らに告げたのですが、彼らはモーセのせいで今までよりもさらに苦しい労役を課せられることになってしまったということで頭がいっぱいでした。
そんな彼らには、モーセのことばに耳を傾ける余裕など、全くありませんでした。
彼らはモーセの杖によって、神の奇跡を見、このモーセこそは神から遣わされた者であると信じ、モーセに従おうと、一旦は心に決めたはずなのですが・・。(4:30-31)
せっかく信仰を持ったのに、状況に心を奪われて神がなさろうとしていることに目が行かなくなってしまう・・。
なんだか私たちの信仰生活そのままを見ているようです。
しかしそんな状況は織り込み済みであると言わんばかりに、主はモーセに次々となすべきことを命じられます。(10節以降)
主は私たちがどのような者であったとしても、そのご計画しておられるみわざは確実に遂げられるお方であることを、ここでは見せられているようです。
この後イスラエルの民はエジプトを出た後も、事あるごとにその信仰を試されることになります。
結局、彼らは大きな奇跡をもってエジプトから脱出させてくださった神に対して、不信感ばかりになってしまい、この出エジプトした世代は約束の地に入れず、次の世代が入ることになるのです。
主の救出のみわざに私たちが与(あずか)るために求められているのは、神を恐れ、あくまでも神である主を信頼して歩むことであることを、ここでは教えてくれているようです。
神に従うときに出くわす悪いこと・・、それは私たちの信仰が試されているときなのです。
そのときを、信仰が増し加わるときとさせていただきたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)