" それでもファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。"
出エジプト記 7章13節
モーセはファラオのところに行って、杖が蛇になることを見せたら、ファラオも呪法師たちを使って同じことをして見せました。
しかしその呪法師たちの杖から出た蛇は、モーセの杖である蛇に飲み込まれてしまったというのです。(12節)
勝負で言うならば、ファラオの負けです。
しかしそれでもファラオの心は頑(かたく)なになったというのです。
頑な・・それは自分の負けを認めないということです。
そしてそれは、このファラオを見ての通り、まことの神を認めないということに通じているわけです。
ファラオはこの後、十度にも及ぶ奇跡を見せられても、その心は頑ななままでした。
ファラオが負けを認めたらファラオは王ではなくなってしまうというわけです。
すべてのものの上に自分を置く者、すなわち王にとって、神を認めるというのは、ほかの誰よりも難しいことなのかも知れません。
それは自己否定につながることだからです。
そしてそれは、私たちにとっても、同じことが言えるのかもしれません。
神を認める・・、それは今まで自分の考えと価値観をもって、自分の力の限りを尽くして生きてきた者にとって、この全能の主を認めるというのは、ある意味で自己否定になるからです。
だからそのような人が神を認めるというのはとてもハードルの高い、超難関であるわけです。
ですから、とことん自我が砕かれるという出来事があったとか、あるいは自分自身に、また生きている環境に絶望してしまった・・、そのようなところで神を認めることになる人はとても多いのです。
そこはすでに自我を守るというような場所ではないからです。
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。(詩篇34篇18節)
自我が砕かれる・・そここそが神と出会う、恵みの場所なんですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)