" ところが、ファラオは一息つけると思うと、心を硬くし、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。"
出エジプト記 8章15節
ファラオはモーセに降参して、モーセに祈るように要請します。
それでモーセは、ファラオが言ったとおりに翌朝、主に叫び、蛙を取り除いていただくように祈りました。
果たして主はモーセの祈りを聞かれ、地上にあふれるほどにいた蛙はみな死に絶え、「地は悪臭で満ちた」とあります。(8-14節)
ところが・・。それが今日の箇所です。
ファラオは「一息つけると思うと」とあります。
一息つくとは、言ってみれば「我に返る」ということです。
それまでファラオは、蛙のことで全く気持ちの余裕がありませんでした。
自分がモーセの神に祈ってくれと言ったなど、いったん我に返ったときには、あれは本当の自分ではなかった・・といった感覚なのでしょうか。
ファラオは我に返った瞬間、この神を認めないという、最初の状態にあっという間に戻ってしまったわけです。
モーセに祈るように求め、一見降参したかのように見えたわけですが、結局ファラオはこのモーセの神を信じたというわけではなかったんですね。
このファラオは、言ってみれば「罪びと」の象徴です。
人は何か切羽詰まったことがあれば神を信じるというところに立とうとするわけですが、それがなくなってしまうと、いとも簡単に「神不在」の以前の自分に戻ってしまう・・、それが「罪びと」です。
そんな身勝手な人(私たち)がクリスチャンになった・・。
それは、我に返ったら、私は罪赦され、神の子とされているんだ・・というところに返る者になったということです。
実にそれは「人」の一大変革なんですね。
元々の自分にはそんな力は全くないのに、神の御力によって、私たちは古い自分に死に、新しいいのちをいただいて歩む者とされたのです。
神の奇跡によって、私たちは「新しい者」へと変えられたのです。
そのことをいつも覚え、主の御名をほめたたえ、歌いつつ歩む者とされたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)