" 呪法師たちはファラオに「これは神の指です」と言った。しかし、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。"
出エジプト記 8章19節
前回と同じ箇所です。
ある方から、次のような感想をいただきました。
・・古代エジプトって多神教?だから、ファラオも(神というものを)信じているのかと思っていました・・と。
モーセの時代はほぼBC1400年くらいです。
この年代を調べると、アメンホテプ三世というエジプトの王の名が出てきます。
この時代の人々は、地方神アメンを崇拝していたようで、それが太陽神としての属性を帯びるようになったとのことです。(ウィキペディアより)
どちらにしてもこれらの神は自然崇拝から生まれた神、すなわち天地万物を作られた聖書の神からしてみれば、「太陽という被造物」を拝む偶像崇拝だったわけです。
ですから、この出エジプト記に出てくるファラオも、この偶像崇拝をしていたことは間違いありませんし、その神を信じていたのだと思われます。
前回私はこのように書きました。
・・王が誰かにひれ伏すなら、その途端にファラオは王でなくなるわけです。
ですから神を認めることは絶対にできないのです・・。
エジプトの王はその神を崇拝していたのかも知れませんが、その神は言うまでもなく、王の意向に反することを言う神である可能性は非常に低いわけです。
偶像の神とは、人の考えで作られたものであって「神」ではないのです。
しかし聖書の神は、人の都合に合わせて言うことが変わってくるような神ではないことは、言うまでもありません。
呪法師たちが言った「これは神の指です」ということばは、自分たちが拝んでいる神とは違う、まことの神がここにその御力を現されたのですという、恐れを伴った畏怖の念でのことばだったに違いありません。
この「聖書のことば」シリーズでは、まことの神のことを「神」とか「神である主」とかいうことばで言い表していますが、それは言うまでもなく「全知全能の、天地万物を造られた、しかも私たちのような小さな存在の一つ一つを愛される、唯一のまことの神」という意味が込められているのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)