" モーセとアロンはファラオのところに連れ戻された。ファラオは彼らに言った。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、行くのはだれとだれか。」
モーセは答えた。「若い者も年寄りも一緒に行きます。息子たちも娘たちも、羊の群れも牛の群れも一緒に行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」"
出エジプト記 10章8~9節
ファラオの家臣たちは、今度はいなごの害だという話を聞いて恐れ、ファラオに進言します。
このままではエジプトは滅んでしまいます。どうか彼らの言うことを受け入れてください・・と。(7節)
そこでファラオはモーセとアロンを連れ戻し、彼らが礼拝のためにエジプトを出ることを許します。
しかしよくよく話を聞けば、この民全員がここを出ていくという話ではありませんか・・。それが今日の箇所です。
それでファラオは、そんな話はとても受け入れられないと言って、再びモーセとアロンを追い出してしまうのです。
ファラオにとって、奴隷であるイスラエルの民というのは莫大な財産なんですね。
結局それを捨てるという選択肢はなく、8番目の奇跡、いなごの大群を招くことになってしまうのです。
私たちは、自分の財産と自分のいのち・・どちらを取りますかと言われるなら、躊躇こそするかも知れませんが、やはりいのちを取らざるを得ないわけです。
しかしファラオは、財産を取り続けたというわけです。
この話を永遠という物差しの上で語られる「福音」に重ねて見るならば、自分の財産とは 「自分」あるいは「自我」のことです。そしてそれよりも大切なはずの「自分のいのち」というのが永遠のいのち、すなわちまことのいのちのことであるわけです。
あなたはどちらを取りますか?・・そう問いかけているのが福音です。
人は、今持っている財産すなわち「自我」を捨てることができず、結局永遠のいのちを失ったままになってしまう。
これこそがこのファラオのパターン、すなわち私たちの「型」なんですね。
" 自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。" (マタイ10:39)
まことのいのちをいただくためには、捨てなければならないものがあるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)