" ファラオは急いでモーセとアロンを呼んで言った。「私は、おまえたちの神、主とおまえたちに対して過ちを犯した。
どうか今、もう一度だけ私の罪を見逃してくれ。おまえたちの神、主に、こんな死だけは取り去ってくれるよう祈ってくれ。」"
出エジプト記 10章16~17節
ファラオは、イスラエルの民が全員出て行くなどということは到底認めることができず、結局いなごの害(8番目の奇跡)を招くことになってしまいます。
モーセが祈ると、エジプト中にいなごがあふれ、せっかく雹の災害を免(まぬが)れた作物が全部食い尽くされてしまい、エジプトから緑が消え失せてしまいました。
それで・・というのが今日の箇所です。
おまえたちの神、主に、こんな死だけは取り去ってくれるよう祈ってくれ・・。
今度こそファラオは、本当に神の前に悔い改めたように見えますが、残念なことにこの後も、モーセの祈りによっていなごが去ると、ファラオは再び心を頑なにするんですね。(20節)
滅びることと救われることの狭間であることを予感しつつも、それでもなお頑なになる・・。
私たちの体に刻まれている「罪の性質」・・それは、自分を守るという性質です。
だから頑なになるわけですが、本当に自分を守りたいなら、自分を捨てよ、すなわち自分の守りを解除せよ・・というのが、神の救いの論理です。
大事なのは、自分を守ることではなく、いのちの源、力の源、そしてあなたを完全に赦すお方を認めるということなんです。
しかしながら、自分を守ろうとする「肉の性質」がそれを邪魔しようとするわけです。
私たちクリスチャンも主を認めて、主の前に降参しておきながら、自分の肉の性質と主の御心との狭間(はざま)に置かれて、結局は主とは逆の滅びに向かう選択をしてしまうこと・・、よくあることなのではないでしょうか。
だからこそ、私たちはその都度思い起こさなければならないのです。
主の死はこの私のためにあるのだ・・ということを。
私たちは、私たちのために死んでくださった主によって、生きる者とされたのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)