" ファラオは彼に言った。「私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。」"
出エジプト記 10章28節
ファラオは漆黒の闇にはとても耐えられず、再びモーセを呼んで言います。
家族もみな行って主に仕えるが良い・・、ただ家畜は残しておけ・・と。(24節)
しかしモーセは、家畜の中から最上のものを選んで主にささげるので、すべての家畜も共に行かなければならない・・と答えます。
それでファラオはとうとう頭にきてしまって、というのが今日の箇所です。
このファラオについて、ここまでずっと語られてきたことがあります。
それは「主がファラオの心を頑なにされた」ということでした。
それはファラオが頑なになることによって、さらに大きな奇跡を人々に見せ、それによって全能の主の名を全地に知らしめるためだっだというのです。(9:16)
ならばファラオは自分の意思などとは何の関係もない、ただの操り人形だったのでしょうか。
ならば例えば、人が神を信じるときにも、それは神が初めから決めておられたことで、自分で決めたことではないということになるのでしょうか。
しかし私たちにしてみれば、それは確かに「自分で決めた」ことです。
ところが神の側から言うなら、神が最初からこの器を選んでいたということになるわけです。
神は、私たちが主体的に心の行動をすることによって、すなわち自分で決めることによって、神と人との関係ができるようにされたのです。
私たちは、それについて注文をつける立場にはないのです。
私たちは被造物であり、神が私たちを造られた神なのですから・・。
ファラオにとっては、それまでのすべてのことは自分で決めた行動でした。
しかしそのすべては、神の御手の中で、神のご計画のために、神がなされたことだったというわけです。
私たちはどんなにあがこうと、この神の御手の中にあり、そしてしかも、その愛の中にあるんですね。
神の御手の中で、私たちはひれ伏し、その神を喜ぶ者となる・・、これが神の御心なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)