" それは、彼らをエジプトの地から導き出すために、主が寝ずの番をされた夜であった。それでこの夜、イスラエルの子らはみな、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。"
出エジプト記 12章42節
ファラオがエジプト脱出を許可したのが真夜中で、その脱出行は夜を徹して行われました。
すなわちイスラエルの民は一睡もしないでエジプトをあとにしたのです。
いけにえの羊を用意するという時点から、それは主が言われた通りのことを行うということで、人々の心は主と共にありました。
そしてそれを焼いて食べて、残りはすべて焼き尽くす・・。これも主を覚えてのことでした。
そして主のことばに従って、エジプトの民から金銀衣服を剥ぎ取り、いよいよ出発に備える・・。これもあり得ない発想ですが、ただ主が言われたことに従った結果として、多くの財宝を手にして出発することになります。
要するにそのすべてのことの内に、主が共におられ、民はその主を肌で感じながら、その脱出行を果たしたというわけです。
一睡もしなかったその夜から翌日まで、主の圧倒的な臨在が民と共にあったのではないでしょうか。
「主が寝ずの番」をされたとある通りです。
ところで、主は眠るお方なのでしょうか。
" 主はあなたの足をよろけさせずあなたを守る方はまどろむこともない。見よイスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。" (詩篇121:3-4)
主が寝ずの番をなさった・・、それは主が寝ないでということではなくて、夜を徹して主が決して離れずに共に進んでくださるのを、民は本当に目の当たりにしながら出発したということなのではないでしょうか。
それでイスラエルの民は、それから後も出エジプトのその日には、そのことを決して忘れることのないように「主のために寝ずの番をする」すなわち夜を徹して主を覚える祭りをするようになったというわけです。
このことを私たち自身に置き換えれば、私たちが古い自分を捨てて主のもとに一歩踏み出したそのとき、主はそこにずっとそこにいてくださったということに他なりません。
救い出されたとき、あのときのことを、私たちはいつも覚えていたいものです。
主がずっと共にいて、私たちをまことのいのちへと導いてこられたのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)