" イスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移動して彼らのうしろを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移動して彼らのうしろに立ち、
エジプトの陣営とイスラエルの陣営の間に入った。それは真っ暗な雲であった。それは夜を迷い込ませ、一晩中、一方の陣営がもう一方に近づくことはなかった。"
出エジプト記 14章19~20節
それまで雲の柱は民の前を進み、民はその雲の柱について移動してきました。
そしてそれが行き止まりの海になってしまったというわけです。
しかし神はここで、「わたしの栄光を現す」と言われました。
それが出エジプト最大の奇跡、海が分かれて二百万の民がそこを渡るという出来事です。
ところがすでにエジプトの軍団は民に近付いていて、民はもう生きた心地もしない、絶体絶命の窮地に立たされていました。
そうしたら今まで民を導いてきた雲の柱は、イスラエルの民の後ろに回ったというのです。しかもそれは真っ暗な雲で、エジプト軍は近付くこともできず、そこに押しとどめられ、動くことができませんでした。
この話を聞くと、イエス様がユダヤの民のことを嘆いて言われたことばを思い出します。
" わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。" (マタイ23:37)
これは、神がそこまでして民を導いてこられたのに、おまえたちはその主である神を退(しりぞ)けてしまっている・・という嘆きのことばですが、この出エジプトにおける雲の話は、まさにその「雌鶏が雛(ひな)を翼の下に集めるようにして」という主の守りの御手そのものを見させられているようです。
主なる神様は、このように私たちを扱われるお方なんですね。
先頭に立って導かれるし、あるときには後ろに回って守られる・・。
主は私たちを、いつもその御翼(みつばさ)の陰にかくまってくださるお方で、私たちはまさに「主の雛(ひな)」なんですね。
私たちはどうすれば良いかって?
この御翼の陰に身を隠していれば良いのです。(詩篇61:4参照)
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)