" ファラオの馬が戦車や騎兵とともに海の中に入ったとき、主は海の水を彼らの上に戻された。しかし、イスラエルの子らは海の真ん中で乾いた地面を歩いて行った。"
出エジプト記 15章19節
この19節には、イスラエルの民が海の中の道を進んで救われたその出来事が、まとめのようにして一言で記されています。
今日はこのことばを通して、私たちの信仰生活における「窮地」について考えていきましょう。
イスラエルの子らは海の真ん中で乾いた地面を歩いて行った・・。
イスラエルの民が絶体絶命の窮地に追いやられた、やっとその時点で主はご自身を現されました。
目の前の海とは、どう見ても克服しようのない壁が立ちはだかっている、そのことを示すものです。
そして注目すべきは、本当に絶体絶命となるその道を、主が導かれてきたという点です。それは主が敢えて、その状況に人々を導かれたということです。
そしてそこまで導いてから、主はモーセに海に手を伸ばすように命じたわけです。
モーセという存在は、私たちの「信仰」を象徴するものです。
信仰によって、「その海の上」に手を伸ばしたとき、海は分かれた・・。
それは少なくとも、その絶体絶命の状況から逃げるのではなく、そこに手を差し出すこと、すなわちそれに向き合って信仰を働かせることを意味します。
するとそこには「乾いた地面」が現れたというのです。
それは明らかにそこを行けという意味です。
そしてそこを行ったら、追っ手もそこに入ってきて民を脅かしました。
それは、与えられた脱出の道においてさえも、安心できない状況が続くということです。
しかしイスラエルの民が海を渡りきったとき、その安心できない状況は一気に消し去られたのです。
神が私たちのためになさること・・、それはいつもこのようなんですね。
問題に向き合って信仰を働かせる・・、それは嵐の中を前進する上で、まず最初に思い起こすべきことなのです。
そのとき主は、あなたにご自身を現してくださるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)