"モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。しかし、彼らには水が見つからなかった。
彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラという名で呼ばれた。
民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。"
出エジプト記 15章22~25節
いよいよイスラエルの民は約束の地カナンに向けて旅立ちます。
彼らは三日間荒野を歩いても、水を見つけることはできませんでした。
そしてやっとマラというオアシスまで来て水を見つけるのですが、その水は苦くて飲めなかったというのです。
私たちは、主に出会って新しい歩みが始まります。そしてそれは、希望に満ちた出発だったはずが、最初からそれはひどいものだったという体験をされたことはないでしょうか。
まさにこの出エジプトは最初から踏んだり蹴ったりといったような旅立ちでした。
民はモーセに向かって、飲み物がないじゃないかと不平を言います。
それでモーセは主に向かって叫ぶと、主は一本の木を示され、それを水の中に投げ込んだなら、水は甘くなったというのです。
主は彼らを、ギリギリのところまで追い込まれて、奇跡のみわざを見せられる・・、これは私たちが今まで見てきた、主のなさり方の典型的なパターンです。
主はこのようにして、イスラエルの民が本当に主に信頼することを学ぶように導いて行かれるわけですが、これはそのはじめの一歩に過ぎなかったというわけです。
信仰の歩みを始めたばかりの者の目の前に立ちはだかる壁・・それは「信仰を働かせる機会」として、主が私たちに与えてくださるものなんですね。
信仰を働かせる・・それは決意を伴う心の「行動」です。
不平ではなくて、信仰の方を選び取ることを学んでいこうではありませんか。
その時主は、苦い水を甘くされるというのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)