"イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に連れ出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」"
出エジプト記 16章3節
イスラエルの全会衆はエリムを出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイの間にあるシンの荒野に入った・・。これが16章の1節です。
エジプトを出てからちょうど一ヶ月が経ちました。
イスラエルの会衆はこの旅にうんざりしたのか、モーセとアロンに不平を言います。
あの奴隷時代は良かった・・と。
あのとき彼らは苦しく、叫んで主を呼び求めていたのではなかったのでしょうか。
さらに彼らは、「主の手にかかって死んでいたら良かった」などと言いました。それは主に呪われて死ぬ方がましだという意味です。
さらに彼らは、モーセとアロンに向かって彼らは、俺たちを殺す気か・・と、怒りと不信のことばを投げつけたのです。(3節)
荒野の旅、それは私たちの信仰生活を象徴するものです。
しかし私たちはこの信仰生活の中で、必ずしも喜べない状況の中を歩まされることがあります。
このイスラエルの会衆のことばは、私たちに置き換えれば、あの頃は飲んだり食べたり、何も考えないで好きなことをしていて良かったなあ。あの頃がなつかしい。こんな生活まっぴらだ。もう死んだ方がましだ。こんな生活のどこに希望があるんだ・・と、そう言っていることになります。
この出エジプト記を読み進むならば、主はこの荒野の旅を通して私たちを試みることによって、主がどのような方であるかを教え、その信仰を養い、そして最後には「幸せにする」のが主の目的なのだということがわかります。(申命記8:16)
主との信頼関係を損なう心の思い・・、それがどれだけの回り道になるか・・。それを出エジプト記から申命記にかけて、主は私たちに教えてくれているのではないでしょうか。。
主は、あなたを幸せにすると、断言しておられるのです。
この辛い今・・それは主を信じてみようと、信仰の心を目覚めさせるときなのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)