" モーセはまた言った。「主は夕方にはあなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださる。それはあなたがたが主に対してこぼした不平を、主が聞かれたからだ。いったい私たちが何だというのか。あなたがたの不平は、この私たちに対してではなく、主に対してなのだ。」"
出エジプト記 16章8節
夕方に与える肉とは、宿営中を覆ったウズラでした。そして朝に与えられるパンとは、天から降るパン・・彼らが後に名付ける「マナ」のことです。
アロンが会衆に向かって、「主の前に近づきなさい。主があなた方の不平を聞かれたからだ」と言っとき、彼らが荒野の方を振り向くと、主の栄光が雲の中に現れた・・とあります。(10節)
それは明らかに主の圧倒的な臨在です。
しかしこの会衆は、この雲に導かれてこの一月間を歩んできたはずです。
彼らにとって、その雲は当たり前のことになっていたのでしょうか。
ここで改めて、彼らはその雲の中に「主の栄光」を見たのです。
私たちの信仰生活において、共にいてくださる主の存在・・それがただの「当たり前のこと」になってはいないでしょうか。
そして目の前に困難が訪れると、不平を言う・・。
モーセは言いました。その不平は・・主に対してなのだ・・と。
わたしたちの口から、不平のことばが出ることがあります。
それはほぼ、物事が自分の思い通りにならないときです。
しかしそれらのことばはみな、主に対してだというわけです。
「すべてのことについて感謝しなさい」(第一テサロニケ5:18) とはどういうことでしょうか。
それは、その先に主は良きことを必ず用意してくださっているという信仰によって、今目の前がどんな状況であっても、ともにおられる主を信じて、前もって感謝するということです。
主が応えてくださるのは、私たちの信仰に対してなんですね。
主の奇跡を見たいと思いませんか。
だったら不平ではなく、主を信じる方を選び取るときに、私たちは生ける主の奇跡を目の当たりにするのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)