" 民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」
そこで、モーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」"
出エジプト記 17章3~4節
前回の続きです。
レフィディムに宿営した民は、そこに飲み水がないことでモーセに不平を言った・・とあります。
それは不平というレベルを超えた、怒りに満ちた罵倒のようなものだったのではないでしょうか。
モーセは主に向かって「彼らは私を石で打ち殺そうとしています」と言っています。
荒野の旅、それは私たちの信仰生活を象徴するものですが、その旅というのは文字通り「荒野の旅」すなわち「主による試みの連続の旅」であるようです。
窮地に追い込まれたとき、そこで主に叫んで助けを求めるのか、主を呪うのかの連続・・。
しかし忍耐の主はその都度、ご自身が救いの力であることを示される・・。
これが私たちが歩まされる「旅」のバターンなんですね。
どうして主は、私たちをそのように何度も試みなければいけないのでしょうか。
それは、私たちが大きな奇跡を何度見せられても、結局本当に主を信頼して自分の身を預け、状況に関わらず安心するというところまでに、信仰が成長しないからなのではないでしょうか。
主はあなたに「わたしが神だ。ほかにはいない。」と言おうとしておられるのです。
人々を導く者が、導かれる側の人々の怒りの砲撃を浴びる・・。
旅が試みの連続なら、それはありがちなことなのかもしれません。
ここで両者をつなぐものは、一つしかないことがよくわかります。
それは主に対する信頼・・すなわち信仰です。
旅をする人々・・、それは教会を象徴します。
そしてそこにいる人々の主に対する信仰こそが、教会を強固な「主の軍団」とするのです。
教会は主に対する信仰によって、一つとなるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)