" イテロは言った。「 〜 今、私は、主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。彼らがこの民に対して不遜にふるまったことの結末によって。」"
出エジプト記 18章10~11節
イスラエルの民はレフィディムで宿営し、ホレブの岩から水が湧き出るという奇跡を見せられ、そして攻めてきたアマレクと戦うという、めまぐるしいとも言える時を過ごし、そこを出て「神の山」に宿営しました。(5節)
神の山・・、それは他でもないモーセが燃える柴の中で主に語られたその山のことで、そこはモーセが身を寄せていたしゅうとであり祭司であったイテロの住んでいた地域でした。
イテロはイスラエルの民がエジプトを出て、まさに近くまで来ていることを知り、先にモーセから送り返されてきた妻と二人の息子を連れて、モーセに会いにやってきたのです。
モーセはイテロに直接、エジプトを出た経緯のすべてのこと、そしてその後の荒野の旅での出来事の話をして聞かせます。
それに対してイテロが言った、というのが今日の箇所です。
イテロは祭司であると言っても、イスラエルを導いたアブラハム、イサク、ヤコブの神をはっきりと主と認めて礼拝する祭司ではなかったようです。
それがモーセから事の次第を聞いて、この主こそがまことの神であること・・あらゆる神々にまさって偉大であること・・を認めて、それを自分の口で告白したというわけです。
この出エジプトの話・・。それをただの逸話だとするのか、あるいは、本当にそのことがあったのだと受け取るのか・・。
このイテロのように、この出エジプトの話を聞いて、この方こそまことの神であると口で告白する者は、この出エジプトを通してご自身を表された主と共に歩む者とされるんですね。
この神を本当の神だと認めるのか認めないのか・・、それはこれからの歩みをまったく二分するものとなり、それは永遠にまで関わってくることなのだと言っているのが聖書なのです。
この主を本当に神と認めるのか・・、私たちはそれをはっきりと心に定めるように促されているのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)