" 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。
七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。"
出エジプト記 20章8~10節
安息日とは、日曜日から数えて七日目の土曜日のことです。
仕事は六日間とし、七日目は「聖なる日とせよ」というのです。
仕事をしている間、私たちはなかなか神に心を集中することができません。
ですから、七日目だけは心を神に集中させる日としなさいというのが、この第四戒です。
このモーセの律法は、イエス様の時代になると、ただの細かい戒律として、その本来の意味が形骸化してしまいます。
それは、安息日を聖とするのではなくて、安息日には仕事はしないということの方に主眼が置かれてしまい、本来の意味が忘れ去られてしまうのです。
イエス様が律法学者らを徹底的に批判した理由がここにあるんですね。
今でもユダヤ教の世界では、安息日、すなわち土曜日には仕事をしません。
でも、それは主を覚える聖なる日というより、仕事をしないということが大事なことになってしまい、例えば、エレベーターのボタンを押すことも「労働」と見なし、土曜日にはボタンを押す必要のないように、エレベーターは自動的に各階を昇ったり降りたりしているというのです。
私たちも、日曜日にはただ「教会に行く」ということだけが大事なことになってしまい、その日を本当に主を覚えるための聖なる日とするという感覚から離れてしまうのなら、これも本末転倒であるわけです。
因みに、キリスト教の世界では、土曜日ではなくて、キリストが復活された日曜日を聖なる日としています。
どちらにしても、私たちは聖なる日として、この礼拝の日を覚えなければならないのです。
聖日とは、主に心を向ける日なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)