
私が敬愛する伝道者また牧師の瀧元明さんが天に召されてもう二月以上経ちました。
その式の直後にこれを書こうと思っていて、あっという間に時間が経ってしまいました。式は愛知県の新城というところで行われました。その際に配られる式次第の裏にこんな文章がありましたので、特にキリスト教についてご存知のないかたに読んでいただきたく、そのまま書き写します。
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キリスト教の召天式(葬式)について
キリスト教の召天式(葬式)になじみのない方もおられると思いますので、キリスト教の召天式についてご説明いたします。キリスト教では「個人を礼拝したり」「手を合わせて遺影を拝む」ことを固く禁じております。聖書によれば「死」というのは、肉体と霊魂が分離して「肉体はちりに帰り」、「魂は神の手に帰る」ことを意味します。
「ちり(肉体)はもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」(伝道者の書12章7節)
従って、すでに神の手の中にある魂が、礼拝や儀式などの人間の行動によって天国に行くとか、地獄に行くということはありません。また、死者の霊が神になるということもありません。キリストを信じる魂は、神のみ国に入り、永遠の祝福を受けています。私たち人間が礼拝すべきお方は、天地の創り主であり、生命の源である唯一の生ける神だけです。神は、神以外のものを拝むことを固く禁じておられます。キリスト教の召天式は、個人を拝むのではなく、「肉体を葬るための式」であり、また「故人をしのび、残された家族を慰め励ますとき」なのです。
『キリスト教(プロテスタント)では、人の死は忌むものではなく、人の霊が地上の肉体を離れ、天におられる神とイエス・キリストのところに召されることであり、イエス・キリストの再臨において復活するための準備に過ぎない。このことからプロテスタント諸教派では信徒の死を『召天』呼ぶ(「昇天」ではない)。従って、死とは、天国において個人と再会できるまでの一時の別れであり、地上に残された遺族などの生存者にとっては、その別れがさびしく慰められるべきことであるが、死そのものは、悲しまなくても良いと説明される。』ウィキペディア参照