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「罪人だと言われるとどうも・・」
5月の二週間のTRIO'のライブツアーで「市原さんはクリスチャンですか?」と、何度か聞かれました。そういう方々とお話をして僕は、多くの人はキリスト教の「本当のところ」を聞きたいという気持ちが少なからずあるんだな感じました。このキリスト教談義もそういう思いから始めたわけです。
しかしキリスト教の話を聞こうとすると決まってあなたは罪人(つみびと)だと言われる。そしてその時点でもう何も聞きたくなくなってしまう。だから話す側もそれを恐れてか、あまりそういうことは言わないで「神はあなたを愛してますよ。」と言って、それ以上何も言えなかったりする。そうするとこれを受け取る側はかなり自分に都合の良いように受け取ることになるんですね。だいたい愛していると言われると、私のことが好きなんだと思う。確かに神は大好きなどというレベル以上に私たちすべての者を愛している。自分の子なのだから。ところがその子が家出をしてしまって、あんたなんか親じゃないよと言っているんですね。父なる神は愛する子を喜んでいるのではなくて、その子が遠くに行ってしまって悲しんでいるんです。「神はあなたを愛している」という言葉の中にはそういう意味が含まれているんですね。
ここに「罪人」の意味を知る鍵があります。犯罪者は確かに罪人です。でも聖書にはすべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず・・(ローマ人への手紙3:23) と、すべての人が神から称賛されるような存在ではないと、きっぱり言い切っています。例えばマザーテレサだって例外ではないわけです。正確に言うと「例外ではなかった」。先日TRIO’のライブが終了したあとに、クリスチャンですか・・と聞かれたのでいろいろ話を始めました。その時に罪の話をしていて、「犯罪者だったら分かりやすいのですが、普通の善良な市民だとそれが分かりにくいんですよ」・・と話したんです。そうしたら、そんなことはない、自分が良いなどとはまったく思っていないと言うのです。
何か感動的な話を聞いたときに「心が洗われました」と言う人がいますよね。あれは紛れもなく、自分の心は洗われる必要があるのだということを告白しているわけです。これはいったいどういうことなんでしょうか。自分の心が明るい、聖い、喜びに満たされているわけではなくて、苦いもので満ちていることが日常のことだと暗に言っているようです。
聖書の最初の方に、アダムと禁断の実の話が出てきます。聖書の基本的な立場はこうです。神と正常な関係にある者は祝福、平安、喜び、そして完全に悪からの守りの中に置かれる。ところがアダムはそれを返上してしまったというのがあのエデンの園での出来事です。神と共に生き、その祝福の中で神を喜びながら生きるために神がアダムに命じたことはひとつでした。それは園の中央にあるリンゴの木・・ではなくて「善悪の知識の実」だけは取って食べてはならない・・というものでした。これを食べるとき、あなたは死ぬ・・神はそう言われたのです。ところが妻エバは悪魔にそそのかされて食べてしまう。そしてアダムも、妻が食べるのを制することもしないで自分も食べてしまうんですね。「必ず死ぬ」とは重大な情報でした。にもかかわらず神に背いたアダム。この時アダムは自分が享受していた神と共に生きる喜びの価値をまったく分かっていなかったのかもしれません。神が必ず死ぬと言われたことばの通り、善悪の知識の実を食べた瞬間に死んだのはこの神との関係だったんですね。(私たちはそれを霊的な死と言います) それこそが真のいのちでした。そしてアダムとエバは肉体的には死なず、善と悪を認識するようになった。善と悪を知る前は、アダムはもっぱら善の中に生き、悪を意識することさえなかった。それなのに善悪の知識の実を食べたアダムは、善悪を知った自分が悪を選んでしまうような者になっていることを目の当たりにするんです。それは、自分が神のことばに背きながら、その責任をエバに転嫁し、挙げ句の果てに自分のそばにエバを置いた神にのせいにまでするんです。エバはと言えば、アダムからこの実を食べてはいけないことを教わっていたのだから責任は自分にあるのに、悪魔に責任転嫁をしている。アダムとエバは今まで全く必要のなかった自己保身をする人間になっていました。このときからアダムとエバは、神の守りの御手の中に平安に生きるという限りなく大きな恵みから、自分を守ろうとするがゆえにさらに罪を重ねる「罪人」として、恐れ、不安、戦いの中で生きる道を歩み始めることになるんです。
エバは「善悪を知れば神のようになる」という悪魔の声を受け取ってしまった結果、それがいかにも好ましいことと思えて食べてしまう。悪魔のささやきの一番のツボは「神のようになる」というところだったのではないでしょうか。人を造られたまことの神を絶対に認めようとしないのが罪人です。そしてもともと神の管轄である善悪の領域に立ち入り、神の座から神を追い出し、そこに自分が着こうとする。これが罪人の深い所にある願望なのではないでしょうか。「オレが神だ」と言う人・・結構います。どういうつもりで言っているのか、自分でも分かっていないのではないかと思うのですが、それは罪人の本質を自ら語っている姿に他なりません。そしてこの罪人の基本の姿は「最初の人」アダムからず~っと私たちに至るまでそうなんだと聖書は言っているわけです。
アダム以来、世界の歴史は善悪を知りながら悪を選んでしまう哀れな人間の歴史だと言って良いのではないでしょうか。アダムの子どもたちは、早速兄弟同士で血を流し、人殺しをします。しかも「嫉妬」「自分が認められない」とかいうことが原因で人を殺すんです。これは今の私たちの姿そのものではないでしょうか。
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「神」ということばをずっと使っていますが、神と言ってもそこら辺の神ではなくて、天地万物を創って、自分をも造って、いのちはその方の手の中にある・・そういう存在であり、又世の始めから終わりまでを一つの計画のもとに、その半分はすでに実行し、そしてこのあとに来る終わりの時までをもその手の中に治めておられる存在・・そういう全知全能の神です。
聖書は創造の初めからこの世の終わりまでのことが1500年あまりの間に神の霊感によって書かれた66の書物によって構成されています。これらの著者のほとんどは師弟関係などのつながりはありません。さらにこれらの著者は創造の有様もこの世の終わりも勿論自分の目では見たことがないのです。にもかかわらず神の立場と神に関して語られていることはとにかく始めから終わりまで一貫しています。
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結局罪人とは父なる神を神と認めず、神から遠く離れ、できれば神なしでやってみたいと思いつつ、自分の考えと自分の力で歩もうとしている人たちのことを言っているわけです。自分中心の尺度で歩む人間が罪を犯さないのはあり得ないことです。まして心の中の罪に至っては全員「アウト」ではないでしょうか。イエス・キリストは悪いことを思っただけでも罪だと言われました。あなたの心の中を映し出すモニター画面というのがあったとして、それを胸に掲げ、街に出ることができますか? 肉の思いは自分中心でそのためには人を殺すことまでするのです。パウロはそんな自分のことを・・
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ローマ人への手紙7:24-25
罪人とは哀れな私たちの姿そのままを言い表した言葉と言えるかもしれません。罪を犯す者は罪の奴隷となると書いてあります。ならば、罪人とは神から離れて自由にふるまおうとしながら、完全に不自由な罪の奴隷となってしまった存在だと言えます。
イエス・キリストとは救い主イエスという意味です。神はキリストを、この哀れな罪人が帰るべきまことの家である神のもとへと導くことのできる唯一の道、いのちとしてお遣わしになったというのです。だからパウロは自分のことを本当にみじめな者=罪人だと告白したその直後に「主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と一足飛びに感謝する者へと変わるのです。クリスチャンはイエス・キリストによって神のもとに帰ることを「救われる」という言葉で表現しています。それは罪の中で滅び行くみじめな人間が、罪の奴隷から解放され、まことのいのちが与えられるということです。
では一体どうやってイエス・キリストによって救われるというのでしょうか。
イエス・キリストは「神のひとり子である神」と表現されています。聖書に記された神と神の計画については本当に私たちの理解をはるかに超えています。キリストはこの世が神によって創造される前から父なる神と共にいたと、ご自身で言っています。(これだけでも目眩がしてしまいます。) そして、神=まことのいのちから離れてしまった人々の救済のために、人のかたちをとって地上に来られたというのです。
人は誰でもイエス・キリストを救い主として信じれば、キリストご自身が私たちのいのちとなってくださるという奇跡に遭遇します。そしてそのいのちのうちには、あの十字架と復活があります。あの十字架は罪人である私たちのために肉の性質を釘付けにしたもので、そのキリストご自身を救い主として信じる者は十字架につけられたキリストと共に罪に死に、復活されたキリストと共に永遠のいのちに生きるようになるというのです。こうして初めて人は罪人という拘束状態から開放され、神が用意されているすべての祝福の中、神の家に帰る者とされるというのです。神はその際に「信じる」という行為だけを私たちを迎え入れるための条件としました。行いによってではなく、ただイエス・キリストを救い主として信じることだけが救いの道だというのです。罪人が行いを正して神の前に良しとされることなどあり得ません。無理な話です。そんな私たちに救いの道が開かれたというこのニュースを英語ではGood News、日本語では良きおとずれ=福音(ふくいん)と言います。それは、良い物を受けるのにまったくふさわしくない者であるにもかかわらず良い物を受けるという、大いなる恵みの話です。
聖書には全巻を通してこのことがはっきりと書いてあります。これは完全な作り話か真実かのどちらかであって、その中間というものはありません。聖書はただの道徳とか善意についての教えが書いてあるものではありません。お読みになれば、拾うか捨てるか、どちらかしかできない書物であることがおわかりになるでしょう。
こういうわけで、罪人だという指摘は、あなたを責めるためではなく、あなたが今立っているところの意味と、それに対して与えられている救いとを見るためにどうしても外せない部分なのです。罪人であることを認めることが神のもとに帰るための、罪の奴隷からの解放の絶対必要条件なのです。
あのキリストの激しい苦しみ、そしてひとり子を十字架につけることの父なる神の痛みと悲しみは「罪人=あなた」のためのものだった・・ここに愛がある。愛する者がいて喜んでいるのではなく、愛する者のためにいのちを差し出す・・。神はあなたを愛しているとは、このことだと聖書は言っています。これが聖書に書かれている最も重要なポイントなんですね。
神は愛です。 ヨハネの手紙第一 4章16節