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ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

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           1611談義2

【 助けを求める心 】

 私はクリスチャンと言われる人間に属する者です。しかし28歳以前はその気のまったくない者でした。通りを歩いていても教会とか十字架とかにはなんの興味もなく、それらはただの自然の景色の一部でしかありませんでした。日本では神とか罪とか言われても、ほとんどの人が自分には99%関係ないという感覚なのだと思います。私もそのひとりで、そんな私が神という存在に目を向けさせられた・・そう、向けさせられたという表現が適切だと思います・・のは、あるとても辛い体験をし、そのことが自分の力では処理しきれず、ノイローゼ状態に陥ったことを通してでした。エリート進学校から大学ヘ進み、間も無くミュージシャンの道へと自ら脱線し、あっという間にミュージシャンの世界では自分の行きたいところに上り詰めました。そんな矢先のことです。それまでは自分が好きなようにしてそこまで来たので、自分自身がコントロール不能になることなど、考えてもみませんでした。自分が考えたり、息を吸ったり、決断したり・・それらを当たり前のこととして、なんの疑いも持たずに28歳まで来ました。
 
 そんな自分本位の座から引き剥がされるようにして、私は今までとは全く違う視点で物を見る者へと変えられたというわけです。私は自分を中心として外を見ることしかしていませんでした。そんな私の視点の土台がどうもあのノイローゼ事件で砕かれてしまったらしいのです。困難を乗り越えながら自分の努力とか才能に恵まれて成功を勝ち得て来た人間って、神を認めたりすることなどほとんど有り得ないのかもしれません。彼は宇宙を作られた創造者など信じようとしないだろうし、神の存在自体も自分の理解の中で完結させようとするのではないかと思うのです。要するに自信があり、自分の理解の中で全てが解決してしまっている人がその世界観から外へ出ることなどあり得ないし、その世界観というのは堅固な城壁のようにちょっとやそっとのことでは壊れ得ないものだと思うのです。そんな硬い壁は外から思い切りハンマーで叩き割らなければ、外へ出ることはまずないと思います。(それまでの私の話ですが)  大体自分が被造物などという感覚は全くない。これは重大なポイントです。被造物という言葉の通り、自分が何者かの手によって作られたのだとしたら、それを認めないということは、子が親に向かって「あんたなんて親じゃないよ。」と言っているのと同じ状態です。仮に被造物でも何でもなく、はっきりした意志もない自然の力によって生命が生まれたのだとしたら、そうやって奇跡的に出来上がった命は、滅びることのないように最善を尽して大切にするのが人類の責務となるでしょう。しかし神が人を造られたのだとしたら、命を守るのも滅ぼすのも神です。その時には、人は神と自分との関係に目を向けることが先ず第一の責務となるのではないでしょうか。神は、人とはまったく次元の異なる、まさしく人知のレベルを圧倒的に超えた全知全能の神であるという存在です。その神が人との関係を神の側から持とうとされてきた、その有様が聖書には綴られているんですね。それに対し私たちは、自分が完全に宇宙の中心となっていて、神のイメージについても勝手な見方をしている。結局「神」とか言いながら、自分の手で偶像の神を作り出すことさえしてしまう。これって逆なんですよと言っているのが聖書です。造り主なる神が愛をもって、祝福を得させようとして、忍耐をもって導いてきたんです。ところがまことの父なる神に対し、お前じゃなくて他の神がいいと言い続けて、後ろ足で砂をかけ続けた神の民。そして、最後にはご自分のひとり子を遣わしてすべての人に対する完全なる赦しと愛を表された父に対して「オレとは関係がない」と言ってしまう。これが聖書が言っている罪人のスタンスです。聖書はすべての人は罪人だと言っています。神との関係の中に本当のいのちがあるのに、神との交わりを絶ってしまっている状態。これが私たちの生まれつきの姿だというのです。必要なのは、本当の父と子の関係が回復することなのだと言っているのが聖書なのです。
 
 私はこういう自分の立ち位置から引き剥がされるようにして・・と書きました。ちょっとくらいのことでは引き剥がされるなんてことは起こりえない。自分に絶望してこれ以上考えたくもないような怒りや、ぐるぐる回る気持ちの悪い思いに支配されるという。今まで自分だと思っていたものが、どこかへ行ってしまうという生まれて初めての経験を通して、自分本位の視点が壊れてしまうという。自分の意思や努力や学びでは得ることのできないとても貴重な機会をいただいたというわけです。外からハンマーで叩き割られるなどということは、自分では選択できないです。そしてそこでいただいたもの・・、それは「助けを求める心」と言って良いかもしれません。イエス様のことばにこんなのがあります。
 
 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。新約聖書マタイによる福音書 11章28節
 
 
 私はうっすらと神を求めていました。私は自分の罪をうっすらと感じていて、今自分が立っている世界とは違う世界もあるのだということも何となく感じていました。私には帰るべきどこかがあるように感じていたのだと思います。私がその時、助けはここにあるのではないかと興味を持ったのが「呪術」と「聖書」でした。呪術はとても興味深いもので、直感的に「ある別の世界」を感じさせるものでした。一方聖書は難しくて訳が分からないところもたくさんありましたが、新約聖書のイエス・キリストのことばには何か引きつけられるものがありました。そのうちに、ある一つの直感が私のうちに「やってきた」んですね。それは、呪術は暗黒で、聖書は光だ・・というものでした。これは確信として私の中にはっきり与えられたもので、それ以来私は呪術に関する本はすべて捨てて、聖書の方を自分の意志ではっきり選択しました。そしてこの聖書に書いてあることに心を開いて、受け取ってみようと思ったわけです。それが始まりだったんですね。当時の自分がどんな状態で、聖書に出会って何が起こって、自分がどうなったのかということを、今ではほぼ理解することができるようになりましたが、その当時はそのことがはっきりとは分かっていませんでした。それはひと言で言えば「イエス・キリストに出会った」ということです。
 
 上記のマタイ11章のイエス様のことばを見ると、休ませるのは物事の理解や知識などではなく「わたし」なのだと書いてあります。わたし・・って、イエス・キリストではないですか。自分を休ませてくれる「実体」がイエス・キリストなのだということですよね。何かが分かったから休めるということではないのです。「イエス・キリスト」があなたを休ませるというのです。このイエス・キリストは2000年前に十字架に掛けられて死んでしまって墓に葬られた。でも、三日の後によみがえって弟子たちに会われ、わたしは世の終わりまでいつもあなた方と共にいると、、そう言われたわけです。新約聖書の多くの部分を占める手紙の筆者パウロは、他の何よりもイエス・キリストが復活されて、本当に弟子たちに現れ、そして自分にも現れて下さったこと・・そこが一番重要で外せない事実なのだと言っています。私を助けてくれるこの「実体」なるイエス・キリストは、本当に私たちを助けて下さる方として存在するのだというわけです。泥棒に入られたら、警察に通報しなければならない。通報してから初めて助け手が来るんですね。実際に助けるのは警察なんです。警察が来るまで待つしかない。私たちがやることは警察に連絡するということです。私たちがやることは「わたしのところに来なさい」と書いてある通り、キリストのところに行くこと。そして助けるのはキリストです。だから必要なのは「イエス・キリストのところに行く」決断と行動です。具体的には何かというと、先ず、イエス・キリストの存在を本当のことだとして心に受けとめ、語りかけるという行動です。「イエス様、私はあなたのことを知りませんが、わたしのところに来なさいと言われるあなたを呼び求めます。イエス様、私を助けて下さい。」と祈る。(これは祈りの一例です) これがイエス・キリストのところに行くということです。
 
 必要なのは、助け主なるイエス・キリストと繋がることです。そのためには電話するか、そこへ行かなければならないんです。元気な人にとってはそんなことはばかげたことでしかないかも知れません。しかし、疲れた人、重荷を負っている人、絶望している人、死のうとしている人、怒りで自分をコントロール出来なくなっている人・・は、このことをすれば良いのです。私たちに求められる決断と行動は、休ませてあげると言われるイエス・キリストの存在を信じ「祈り」という電話をイエス様にかけることです。あとはその後をケアしてくれるところ=教会に行かれると良いでしょう。ひとりでその道を歩むのは様々な障害や困難がありますからね。
 
 二千年前、十字架に掛けられ、死んでよみがえり、天に上り、世の終わりまでいつまでも共にいて下さるというイエス・キリストに出会う・・。それは今のあなたにもあり得ることなのですよと叫んでいるのが新約聖書であり、教会であり、牧師や伝道者、そしてイエス・キリストに出会って新しい歩みを始めたクリスチャンたちなのです。こうしてイエス・キリストを呼び求めた者は、イエス様の十字架の苦しみと死と復活がまさに、自分の罪のための死と新しいいのちのための復活であること、即ちイエスご自身がいのちであり、すべてのすべてであることを知り、この苦しみを伴った赦しこそが無条件であなたを受け入れて下さる父なる神の愛のかたちであることを知るのです。イエス・キリストこそまことの父なる神との親子関係を回復するカギなのです。このまことの父は、自分から家を出て、放蕩三昧をして、文無しになってから初めて我に返り、家に帰る資格などないことが分かっていながら帰ってきた息子を喜び勇んで駆け寄り抱きしめてくれる父なのです。

 
 
 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」 新約聖書 ヨハネによる福音書 14章6節
 
 
2016.11.12.Sat 21:41 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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