
これを読まれる方は、キリスト教談義10「聖書を読むと何が分かるのか・・」を先ず読まれることをおすすめします。今回の「聖書の目的」は、その付記です。
聖書は色々な読まれ方、取り扱い方をされてきました。道徳の書だったり、歴史の書だったり、また世界一のベストセラーということで博識、教養のために読まれたり、、。
私は前回、聖書に馴染みのない方々のためにと、少し長い文章を書きました。この文章には、私には当たり前のことですが、読まれる皆さんには必ずしもそうではないひとつのポイントがあります。それは神を認めるという基本的な立場です。聖書の全体を見渡せばわかることですが、聖書とは天地創造の初めから終わりまでの、神の計画が記されている書物です。ですから、神を認めるというところに立たなければ、聖書のことばはほとんど意味を持たなくなってしまいます。私は、聖書の本質は「神のことば」だと言って良いと思っています。勿論聖書は人が書いたものですから、その中には人の思いで書かれている部分もありますが、全体を見れば、それは圧倒的に神のことばです。
いくら熱心に聖書を読んでも、ことばがまったく頭に入ってこないということが往々にしてあります。あなたがもし、聖書のことばを神のことばとして認めていなかったら、聖書とは何の接点も持てないと思います。そのような場合におすすめしたいことがあります。それは聖書のはじめのことば、「初めに、神が天と地を創造した。」を、先ずはそのまま受け止めて読み始めるということです。神「が」、天と地を「創造した」・・と。そのとき、神の天地創造という壮大な空間と時間の流れの中で、「神の言葉」を聞くということの意味を垣間見ることができるかもしれません。
聖書にはその全体を通して示しているひとつの存在があります。それはイエス・キリストです。旧約聖書の中には、やがて来たるべき王=メシヤ(救い主)に関する預言が星のように散りばめられています。そのメシヤが実はイエス・キリストだったのだというところに立った瞬間に、聖書が創世記から黙示録まで一本の太い線でつながります。聖書は「神のみ子イエス・キリスト」について書かれた書物なのです。そこを外すと不毛な論争や議論になったり、聖書が単なる道徳や歴史の本といった、多くの書籍の中の一冊にしか過ぎない、ありふれた存在になってしまいます。
聖書は神の霊感を受けて書かれたものだと、聖書の中に書かれています。(新約聖書 テモテへの手紙 第二 3章15-17節 参照) それは、聖書は神が書かせたものである、という意味に他なりません。そしてその目的は何かと言えば、神が人々にご自分のみ子「イエス・キリスト」を知らしめ、そのみ子を通して人々をご自身のもとに帰らせることです。そのために聖書がこの世に置かれているのです。それが達成されれば聖書はその役割を果たしたことになります。また達成されていないのなら、その目的のために今も聖書は人の前に置かれているわけです。これが聖書の目的であり、それは即ち「神の目的」だということになります。
次回の「キリスト教談義/その12」は出エジプト。映画でも海が開けるシーンでおなじみだと思います。奴隷となってしまったイスラエルの民をエジプトからの解放に導くモーセの話・・。ここに実は、世の初めから終わりまでの、神の計画の全体を凝縮したひな形があります。結局次回も「その10/聖書を読むと何がわかるのか・・」の続きとなりそうです。
<バックナンバー>
10聖書を読むと何がわかるのか 2017.4.24
9.クリスチャンはどういう風な仕組みの人間か 2017.1.20
8.クリスマス・・それは 2016.12.30
7.助けを求める心 2016.11.12
6.イエスの言葉が全く理解できなかった人々 2016.9.8
5.悪質メール撃退グッズ 2016.7.25
4.信じることでしか出会えない神 2016.6028
3.罪人だと言われるとどうも・・ 2016.5.31
2.熊本地震・・神は何をしているのか 2016.5.2
1.あんな人が、どうしてクリスチャンなの? 2016.4.2