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ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

ライブのご案内/キリスト教談義を中心にお届けしています
  
 1901談義3


 キリスト教は、罪を犯してもその都度神に懺悔(ざんげ)すれば、何度でも許されるんだよね・・と言われたことがありました。答えは「そうです」なんですけど、それを言う人の思いの中には「だったら罪もやりたい放題でしょう」という意味での言葉だとわかっていたので、そうですとは言えずに、そのまま話が終わってしまいました。

 しばらく経ってそのことを考えていたら、次の聖書の言葉が頭に浮かんできました。
人はうわべを見るが、主は心を見る。
 ・・旧約聖書 サムエル記 第一 16章7節

 何度でも罪を犯すたびに許されるんだったらやりたい放題じゃない・・という言葉は、その心が罪を慕っていることを言い表しています。神はその「罪を慕っている心」を見られるということです。神の前に心は隠せないのです。
 ではクリスチャンが罪を犯してしまうたびに神にゆるしを乞えば、そのすべての罪はゆるされるというのは一体どういうことなのでしょうか。このことについては以前も何度か書いたように思いますが、クリスチャンという人間の内側に何が起こったのかということがわからないと、おそらく理解不能だと思います。

 そこで、ある「万引きをやめられない」男について考えてみたらどうかと思いました。そう。万引きをやめられない男がクリスチャンになる話です。

 彼は盗みが罪であることは重々承知なのですが「貧乏でもないのに万引きをしてしまう」・・そういう人でした。その彼が福音のメッセージを聞きます。そのメッセージではこんなことが語られていました。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です・・と。そして、罪の奴隷の行く先は死です・・と。そして神は人々を罪の縄目の中から解放するために御子イエス・キリストを人の形で地上に送られました。そしてその御子は十字架で釘付けにされ、死んで三日ののちによみがえり、その後天の神のところに戻ることで、私たちの救いとなってくださった。このイエス・キリストを信じる者は誰でも罪がゆるされ、その束縛から自由になれるのです・・と。
 そこで、盗癖については自分の力ではどうする力もないことを思い知っている彼は、イエス・キリストを救い主として受け入れることにします。受け入れるとは、自分の心で今生きておられるキリストの存在を信じ、自分ではまだよくわからない天の父なる神に向かって「神さま、私はあなたのことを聞きました。まだよくわからないことがたくさんありますけど、あなたが私を罪から解放してくださる方であることを信じます。どうぞ助けてください。」・・そのように自分の心で祈ることです。イエス・キリストは生きておられ、人の祈りを聞き届けてくださる存在なので、その祈りを聞いてくださり、その人の内に入ってくださいます。とは言っても「イエス・キリストは天に上られ神の右の座についておられる」ので、信じる者の内に入ってくださるのは正確に言うと聖霊です。あるいは御霊(みたま)とも言います。イエス様はご自分が天に上られた後、私たちに「助け主」を送るからねと、約束されました。それが聖霊です。神は三位一体(さんみいったい)の神、すなわち父なる神、御子なるイエス、そして助け主である聖霊という三つの位格を持つ存在です。ですから、この三様のあり方がありながらも、父,子,聖霊から発せられる情報には、聖書を通しても、また私たちが直接受けるみことばや啓示を通しても、なんの食い違いもないということです。だから聖霊が私たちに直接神の心そのままを示してくださるし、神の力となってくださることもあるわけです。それは簡単に言えば神との交わりが成立している状態です。

 さて、この男の内に聖霊が宿るようになりました。そこでこの男は日常生活の中で、聖霊の促しや語りかけを受けるようになります。その基本は律法の二つの大きな教えに従っています。そのひとつは、父なる神を心といのちと知性を尽くして愛すること。そしてもう一つは、あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい・・。この聖霊の促しに従っていくという歩みの中で、罰せられるような罪からも、また心の中で犯す罪からもきよめられ解放されていくというわけです。
 しかしそれはエスカレーター式に乗っかっていれば登って行けるわけではありません。むしろ信仰生活に逆らおうとする自分の古い性質が、クリスチャンになっても自分の内に残っていることに信仰者は気がつき始めます。また同時に、人が神に従うという霊的な世界の中で、それを最も嫌う霊的な勢力にも遭遇します。ですからクリスチャンになると、ある種の戦いの中に身を置くことになります。これらの反対勢力の究極の目的は、人をまことの命から切り離して霊的な死に至らしめることなのですが、クリスチャンの内には死の力を打ち破ってよみがえられたキリストがいのちとして、決して見放さず見捨てないという不動の救いとして、与えられています。そしてクリスチャンはそのいのちを選び取れば、実際にそれらの敵対する力からの勝利を実感して歩むことができるわけです。

 神は私たちが自分の意思をもってその勝利の道を選び取っていくということを求められています。これは人の側の選択です。自分の中の声や古い性質、また悪しき霊からの声などがあって、それらが語りかけてきたときに、そちらの声ではなくて神の言葉の方を選び取る。それが「選び取る」の意味です。
 この万引きをしてしまう男は、救い主イエス・キリストに目を向け、キリストを自分の中に迎え入れたとき、その力を確信します。そして自分が「神が喜ばれることを神と共に喜ぶ者」に変えられており、ひとりひとりのいのちを愛おしみ尊ぶ者とされているという、今までに見たことのない光の世界を垣間見ます。そしてこここそが求めて歩むべき宝のあるところだと確信するわけです。そしてそれを喜び、祈り、無力な者でありながらも神に従う力を求めながらこの光の道を歩み始めます。
 神に従うと決めたとき、あの万引きへの誘惑はどこへ行ったのかと思うくらい自分とは関係のないものとなっていることを実感します。ですがちょっとだけ自分の昔ながらの性質に妥協して、その目が神から逸れたときに、あの頃の万引きへの誘惑が待ってましたとばかりやってくるわけです。最初は断固としてそういう思いを拒否していたはずが、いつの間にか聖霊から来る神の思いと自分の思いとが交錯し、気がついたら自分の思いの方を選んでいた。そう。彼はまた万引きをしてしまう・・。そのような可能性は実はあるのです。でもここからが世の中の人が全く誤解している部分で、それは「彼はその時点でクリスチャンとしての資格を失ってしまう」と思っているという点です。
 ここでは話を「万引き」という罪に限定していますが、クリスチャンは様々な罪について信仰生活を重ねるに従い、自分は本当にきよめられるに値しない者だと思うくらいに自らの罪をさらに深く実感するようになります。即ち、自分の罪深さが益々見えてくると言うわけです。そうなったらその人は、クリスチャンとしての資格を失うのでしょうかという話です。

 彼は再び万引きをしてしまった・・。しかしその時に彼は、以前の自分とは違う思いが自分の中にあることを見させられます。以前はただ、自分はダメな男だなと思いつつ、しかも万引きを繰り返していたわけですが、それが今はちょっと違う自分になっている。盗んだことに対して、ものすごく苦い思いが心に満ちている・・。ああ、こんなことはもう二度とやりたくないと思うわけです。それが聖霊の働きです。ただし、その苦い思いに蓋をすることもできてしまうんですね。実はここに信仰生活の明暗の分かれ道があるんです。彼は苦い思いにはっきり向き合い、キリストの前にもう一度立ちます。その時、この男は十字架にかかられたキリストを見上げます。そしてこのイエス・キリストという、今や自分のいのちとなってくださったお方が、自分の罪のために十字架にかかられ、父なる神の前にあがないとなってくださった救いそのものなのだ、ということが心に示されます。(これも聖霊の働きですが)それによって、ああ私の罪も、私の存在もゆるされているのだという、信仰者の原点にもう一度引き戻されるわけです。男は祈ります。「主よ、あなたの救いとゆるしが、今もあることを知りました。どうぞこのような私を哀れんでください。もう二度と盗みをしないように、私を作り変えてください。誘惑が来るときにはどうか私がそちらを見ることがないように守ってください。」と。この男はこのことを通して、自分の弱さというものをさらに体験的に知っていくようになるわけです。実はそれがクリスチャンの歩みの基本的な「型」なのです。
 信仰者は、人が本当に変わるのは自分の力では到底無理なことを、こういった挫折体験によって気付かされます。自分はまだまだ自分で自分を変えようとしていたんだということがわかるわけです。人を本当に変えることができるのは、人を造り、キリストを死からよみがえらせた、天地を作られた全能の神の御力しかないのだと・・。そして主の力に改めてすべてをゆだねるという決意をした時に、彼はそこに弱い者の上にある主の奇跡の御わざを体験し始めるのです。

 聖書の中には、神そしてイエス・キリストのされた奇跡の話、弟子たちを通してなされた奇跡の話が数えきれないほど出てきますが、それは主なる神ご自身がそれをなさる方であるということを、これでもかというほど強調しているわけです。ところが残念ながら多くの人々はそれを聞いてもそこには到達しないようです。信仰者でも、心の奥には中々それを認めようとしない固い壁があります。そのかたくなな心が、「主ご自身こそがそれを成し遂げることのできる唯一の存在である」というところに立ち返らされるという出来事を通して、少しずつですが、固い心の壁も少しずつ砕かれて行くというわけです。そうして初めてクリスチャンは「栄光から栄光へと主と同じ形に変えられていく」という奇跡を体験しながら歩むわけです。それは自分への絶望と神への降参の繰り返しなしにはあり得ない歩みです。
 ですからこの歩みはきよめられていくステップの話であり、懺悔すればゆるされるんだから、罪は犯し放題だよという考えとはおよそ真逆の世界です。

 この男はクリスチャンになってからも盗みをしてしまった。そして苦い思いの中でもう一度悔い改めて、神との交わりの中へ戻ることができた。だからもう二度と盗みをすることはないかというと、それもわからないわけです。誘惑や神への反対勢力の攻撃はさらに増し加わります。しかし彼の上にはいつも、彼を神の光の中に導く聖霊の存在があります。この聖霊を無視することはできますが、本人が求める限りは「決してあなたを見放さず、見捨てない」と言われる主なる神=聖霊がその歩みに伴ってくださるわけです。
 先ほど「ここに信仰生活の明暗の分かれ目があります」と書きましたが、明暗の分かれ目は、罪を犯してしまうか否かではなくて、罪を犯してしまったときに聖霊の促しに向き合うか、そこから目を逸らすか、これが明暗の分かれ目であるということです。この男は「明」を選んだわけです。では「暗」とはどういうことかというと、それは聖霊から目をそらしてその促しの声に蓋をしてしまうということ、即ちいのちなる神から目をそらすということです。結果、自分が何者なのか、神のみもとに帰る者とされたということがどんなことなのか、神がどのように栄光に富んだお方なのか、自分がいただいた宝がどのようなものか・・それがさっぱりわからなくなり、クリスチャンであることさえもわからなくなってしまうわけです。神が光であり、いのちであるのに、恵みによっていただいたその大きな祝福を地面の中に埋めてしてしまう。そして再び罪の奴隷という「以前の自分」に舞い戻る。これが「暗の選択」です。

 クリスチャンというのは、何度でも神の前に悔い改め、そこにすでに備えられているゆるしをその都度受け取り、そのたびに神の愛の深さと忍耐強さを目の当たりにし、神の御名をほめ、神を喜び、賛美し、ますます愛して歩む「砕かれる者」の道なのです。この何度でも「いのちを選択する」という地道な作業が信仰生活に於いては必須なのです。そのことを通して信仰者は十字架の真実味がますますリアルになり、そのためにいのちを捨てられた御子、そして父なる神の愛がどれだけ大きなものかをますます実感する者と変えられていくのです。

 何度でも悔い改める者を、神は限りなくゆるされる。それは神のもとに立ち返るという心の行為こそを、神様は認めてくださるからです。ペテロはイエス様に、(クリスチャンの)兄弟が自分に罪を犯したら何度までゆるしたらいいですか、七度までですか、と問います。それに対しイエス様は、七を七十倍までと言われました。これは490回までという意味ではなく、限りなくという意味です。それは神が自分に対してゆるされる回数のことでもあります。
 神が喜ばれるのは、悔いた心、砕かれた魂です。自分の力で歯を食いしばって頑張ろうとするべきポイントは、自分を変えようとするところではなくて、神に立ち返ろうとする、そちらを選択するというところにあるのです。そのために、時には自分を打ち叩く必要もあるかもしれません。そして神こそがそれを成し遂げることのできる存在であることを信じるというところに留まること。神はその心の決断を見て、その人を良しとされる。これが神に赦しをいただいた者の、神との関係に於ける基本なのです。
 神様とは限りなく忍耐強いお方。そのために人の子として地上に降り立ち、そのいのちをさえ惜しまずに私たちの罪のためにささげてくださった方なのです。


 以下、十二の聖書の言葉です。

 人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
 ・・ヨハネの福音書 15章13節

 神へのいけにえは砕かれた霊。
 打たれ砕かれた心。
 神よあなたはそれを蔑まれません。
 ・・詩篇 51篇17節

 強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」
 ・・申命記 31章6節

 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
 ・・エペソ人への手紙 3章19節

 人の子(キリスト)を悪く言う者はだれでも赦されます。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されません。
 ・・ルカの福音書 12章10節

 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
 ・・ローマ人への手紙 8章28節

 「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。
 ・・コリント人への手紙 第一 2章16節

 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
 ・・コリント人への手紙 第二 12章9節

 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
 ・・コリント人への手紙 第二 3章18節

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
 ・・ヨハネの手紙 第一 4章10節

 私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。
だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、
それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。
だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。
 あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。
 ・・コリント人への手紙 第一 3章10~16節

 ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。
むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。
 ・・コリント人への手紙 第一 9章26~27節

 以上、聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 より (カッコ内は市原注)
 
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 「ドラマー市原康のキリスト教談義」・・バックナンバーのご案内です。

  その14「救われる・・てなに?」2018/10.19
  その13「あんな人がどうしてクリスチャンなの?」2018/9.18
  その12「キリストは絵に描いた餅?」2017/11.21
  その11「聖書の目的」2017/5.11
  その10「聖書を読むと何がわかるのか」2017/4.24
  その9「クリスチャンとはどういう風な仕組みの人間か」2017/1.20
  その8「クリスマス・・それは」2016/12.30
  その7「助けを求める心」2016/11.12
  その6「イエスのことばが全く理解できなかった人々」2016/9.8
  その4「信じることでしか出会えない神」2016/6.28
  その3「罪人だと言われると、どうも・・」2016/5.31
  その2「熊本地震・・神は何をしているのか。」2016/5.2
 
 
   
   
  
2019.01.21.Mon 18:49 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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