G-Cafe 聖書のことば #85
【いのち】ヨハネの福音書その2
この方にはいのちがあった。
このいのちは人の光であった。
光は闇の中に輝いている。
闇はこれに打ち勝たなかった。"
ヨハネの福音書 1章1~5節
前回のみことばの後半です。
ことば=キリスト という理解によって、このヨハネの福音書の冒頭が、イエス・キリストをという方をはっきり指し示すためのイントロ(序章)であることが見えてきましたね。
ヨハネの福音書は、新約聖書の初めに出てくる4つの福音書の4番目です。この4つはそれぞれ特徴がありますが、このヨハネの福音書は、イエス・キリストの「神性」を特に強調しています。
「神の子なる神」ということを、はっきり述べているのが、このヨハネの福音書なんですね。
"いまだかつて神を見た者はいない。
父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。"
(ヨハネ1:18)
この「ひとり子の神」ということばがそれを象徴しています。
そして今日の箇所。「この方にはいのちがあった」・・
「いのち」・・それは、生まれてから定められた期間を生き、時が来ると死ぬといういのちではないことは、明白です。
このいのちは「死」とは別のもので、ここに死はないんですね。
「永遠のいのち」ということばが、福音書の随所に出てきますが、この「いのち」は「死」のないいのち、いのちそのものなんですね。
まことのいのちは死には繋がっていないのです。
エデンの園でアダムとエバに与えられたものは、この「いのち」でした。
そして、聖書の最後、黙示録に出てくる新天新地における永遠のいのちも同様です。
アダムは、神から独立する道を選んでしまったので、園にはいられなくなりました。ここで初めてアダムとエバは「死ぬ者」となったんですね。(創世記3:19-22)
この方にはいのちがあった・・。
神ならば、いのちを造られた側の存在ですから、いのちが必要であるはずはありません。
そのいのち・・、それは「人に与えることのできるいのち」そのものだと言っているんですね。
キリストがまことのいのちだというのです。イエス様は言われました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)
そして次、
このいのちは人の光であった・・。
このまことのいのちは「人の光」だというのです。
光は人を照らします。どんなお化粧をしているか、全部見えちゃうんですね。心のお化粧の話ですけど。
あるいは、人の歩みのための光という風にも受け取れます。すなわち、歩むべき道を照らす光です。
でも、そんな意味を超えて、光とは本来、人を通して発する、神ご自身の存在、栄光なんですね。
そしてその光を輝かすことこそが、人が生きることの意味であるとも言えるわけです。
次のみことばが、そのことを一言で言い表しています。
"イエスは再び人々に語られた。
「わたしは世の光です。
わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、
いのちの光を持ちます。」"
ヨハネの福音書 8章12節
ヨハネの福音書、しばらく続きそうな気配がしてきました。(笑)
余裕のある方は、ヨハネの福音書を先に読み進めておかれると良いかと思います。
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !