G-Cafe 聖書のことば #89
【神によって】ヨハネの福音書その6
" この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。"
ヨハネの福音書 1章13節
前回は「神の子どもとなる」ということを見てきました。
そのための人の側の行動の条件は、「その名を信じる」ということでした。
そして今回は、それは何によって生まれるのかという話です。
血によってとか、肉の望むところによってというのは、「人の側でできる何か」を表している言葉です。
血によってという言葉を見ると、聖書を読む人は、イエス様の流された血のことをイメージしますが、ここでは、人の血のことを指します。人が血を流すことによって何かを実現するという意味です。
また肉の望むところによってというのも、自分の願望の強さをテコにして、努力をすることで何かを成し遂げるということです。
また意思によってというのは、不屈の精神といった、意志の強さによってという意味です。
それらによって「神の子どもとなる特権」が与えられるのではない。「ただ、神によって」と言っているわけです。
それは、人の側からの力によって実現するのではない。起動力は神にあるということです。
人の側ですることは「信じる」という単純な動作、すなわち、心の中でスイッチを入れるだけだというのです。
今まで「恵み」ということを書いてきましたが、それも同じことです。
「恵み」とか「ただ神によって」ということを理解するのって、実はとても難しいんですね。
何故かというと、私たちの内には、どれだけぺしゃんこになっても、まだ自分の能力や意志の力に頼ろうとするという傾向があるからです。
確かに人はそれぞれ、いろいろな能力が与えられています。しかし、その能力が生かされるか、生かされないか・・。それはまた別の話なんですね。
ですから、自分の努力や発想は捨ててしまいなさいということではありません。
ある人が就職します。その会社は、悪徳会社かもしれないし、利得のためではなく社会のために貢献しようとする良い会社かもしれない。
あなたがすることは、就職先の会社によって、結果が違ってくるんですね。どこにいてもあなたの能力に変わりはありません。しかしあなたに社会貢献の一翼を担わせてくれるのは、その良い会社なのです。
人が、自分の歩みを、自分ファーストの思いに任せるのか、それとも一点の汚れも暗さもない神に任せるのか・・、
あなたの能力は同じです。しかし自分を預ける相手によって、やることは180度変わってくるというわけです。
だから「信じる」という出発点が、運命を全く別のものにするわけです。
主を信じるということは、主に自分を預けるということなのですから。
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !