G-Cafe 聖書のことば #92
【イエス様の目的】ヨハネの福音書その9
イエス様がニコデモに話をされた、その最後の部分です。
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
ヨハネの福音書 3章15節
モーセが荒野で蛇を上げたという話は、旧約聖書の民数記21 章に出てきます。
イスラエルの民は、神の偉大な御手のわざによって、奴隷として散々苦しめられていたエジプトから逃れることができました。
ところが、荒野の生活が不自由だと、とたんに不平を言い始めます。でもそれは、先行きが全く見えないことによる不安から来ていたわけです。
自分だったらどうするだろうかと考えると、彼らが恐れるのは無理もないなあと思うのですが、人々はその恐れの挙げ句の果てに、そこまで強い御手をもって導いて来られた神に対して、不遜な態度を取り始めるんです。
彼らは毎日、天から降る不思議な食べ物「マナ」によって養われていました。マナはそれだけで人を生かすという、いわばスーパーフードだったわけです。
ところが人々は、神の人モーセに対して決定的な言葉を投げつけてしまいます。
「われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている」と。民数記21:5
その不遜な態度に主の怒りが臨み、主は民の中に燃える蛇を送られました。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ、・・これがその結末です。
モーセの必死のとりなしの祈りの結果、主は「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きるから」とモーセに命じます。
それでモーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付け、高く掲げました。そしてそれを見た人々は、蛇に噛まれても、死ぬことはなくなりました。
この蛇を仰ぎ見た人は、神の怒りの対象ではなくなったのです。
それは「上げられたイエス様」を仰ぎ見る者は生きる、という「救いの型」がこの出来事にあるということなんですね。
人々が青銅の蛇を見上げたというのは、自分の罪の姿を直視するということでした。
イエス様の十字架の姿は、人々の罪の結果の姿なんですね。
あのキリストの姿は、自分が受けるべきものだと気付く時、それを仰ぎ見て救われるというわけです。
イエス様は十字架にかかられて死んで、三日の後によみがえられた方です。
神は私たちに、このイエスを救い主として、全世界に高く掲げられたんですね。
このキリストにあって、信じる者は、罪が赦され、永遠のいのちをいただくのだと・・。
そのために先ず「人の子は上げられなければなりません」と、イエス様は言われたわけです。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためだ・・と。
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !