G-Cafe 聖書のことば #95
【心の闇】ヨハネの福音書その11
" 御子を信じる者はさばかれない。
信じない者はすでにさばかれている。
神のひとり子の名を信じなかったからである。
そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。"
ヨハネの福音書 3章18~19節
御子を信じる者とは、言うまでもなくイエス・キリストを救い主、主として信じる者です。
御子は私たちの古い性質を釘付けにしてしまうために、私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださいました。そして新しいいのちとなってくださるために、よみがえられました。
御子を信じる者は「御子にあって」罪が赦され、神の家の子として、死を超えた永遠のいのちが与えられます。これが福音です。
ですから、御子を信じる者は、叱られることはあっても(笑)、さばかれることは、もうないのです。
この救いは、神が与えてくださった奇跡の中の奇跡。受け取らなかったら、もう行きどころがない。そういうものです。
資金繰りに困ってどうにもならない時に、お金を融通しようという話があったのに、それを拒んでしまった・・。
そうしたら、それはもう誰の責任でもない。拒んだあなたの責任で店は潰れるわけです。
さばきを取り除かれる道が目の前に置かれているのに、それを拒めば、そのこと自体によって「さばき」は確定してしまう、というわけです。
信じない者はすでにさばかれている。それは自分の選択だというのです。
そして「さばきとは」と続きますが、これは「信じないこと」とはどういうことなのか、ということの解説になっています。
光が世に来ているのに・・と言っています。それは世を照らす光であり、永遠の希望がそこにあることを示す光でした。
と同時にこの光は、私たちの心の奥も照らし出すんですね。
心の奥まで光で照らされてしまったら、もうたまったものではありません。
私たちは本能的にそれを隠そうとします。
それが見えてしまったら、誰にも顔向けできないことを直感するからです。
だからそれを避けて、心の奥のクモの巣が張ったような闇の部分は、とりあえずそのままにしておこうと思ってしまうんですね。
それは「自分の行いが悪いため」だというのです。だから「光よりも闇を愛する」のだというわけです。
人の心の奥には、闇があるんです。
本当はその奥の部屋は、綺麗にそうじされ、しかもそこは、満たすべきもので満たされる必要があるんですね。
人はその必要を、なんとなく感じていはいるんだけど、結局「闇を愛する」ことでまぎらわせているというわけです。
この必要のことを「心の渇き」と言います。
イエス様は言われました。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」" (ヨハネの福音書 7:37-38)
心の奥底から生ける水の川が流れ出る・・。これが実は、私たちの心が切に求めているものなんですね。
イエス・キリストは「そんな私たちのために」来てくださったんです。
心の奥を光で照らし、その汚れを見せ、神の前に出るには、およそ相応しくない者であることを、その光は示されるんですね。
その時、人はまことの神の前に、ただ平伏すしかなくなるのです。
しかしそこで目を上げると、そこには十字架にかかられ、死んでよみがえられたイエス様が立っておられるんですね。
イエス様は言われます。
わたしがあなたの心の闇の処分をしたよと・・。
わたしがその汚れを取り除き、傷を癒し、あなたの心を愛で満たし、それがおさえきれなくなって、外にあふれて流れ出るようになるよ・・と。
もう、心の闇を隠す必要はなくなったんですね。
祈り・・「イエス様、私を導いて、私の心を愛で満たしてください。」
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !