G-Cafe 聖書のことば #100
【詩篇23篇】
" 主は私の羊飼い。
私は乏しいことがありません。"
詩篇 23篇1節
私たちは、御霊と共に歩み、キリストの十字架のもとに立ち、いつも父なる神に祈りつつ歩む者です。
そのように、神に包まれるようにして日々を過ごしているのがクリスチャンなんですね。
私たちはこの神を「主」と呼びます。
詩篇23篇は、この主を喜び、賛美しているところとして、多くの人々に愛されている箇所です。
今回は、第1節のみです。
主は私の羊飼い・・。
主のことを、自分の羊飼いだと言っています。
自分は羊飼いの手で、守られ、導かれ、養われている・・そういう者なのだと、本当に思っているということです。それは主という方を完全に信頼している人のことばです。
しかも大胆にも「私の」と、あたかも独り占めにするような言い方をしています。筆者ダビデは、それを確信していたんですね。
ダビデが、一介の羊飼いだった頃からイスラエルの王となるまで、主はダビデと共に歩み、命の危険のある中を歩んだ時にもダビデは信仰を捨てず、主もダビデを見捨てず、導き、力を与え、道を開き、祝福されました。
ダビデにとっては、主は疑いもなく「私の主」と言えるお方でした。
この「主」は、私たちにも、全ての人にも「主」となってくださるお方なんですね。
これを読まれているあなたも、「主は私の羊飼い」と言う可能性があるわけです。
主はその人個人のことを心配し、例え羊のように臆病でも、何も分からなくても、それは関係のないことなんですね。
一旦主の羊となったら、主が心を砕かれ、導かれるのです。
主は「あなたの羊飼い」となってくださるお方なんです。
そのあとにダビデは言いました。
「私は乏しいことがありません」と。
それは、何も乏しいことが見当たりません、ということです。
ダビデは、あらゆることにおいて、足りないと感じることはない。すべて満たされていると・・、本当にそう感じていたわけです。
このあとに、主がなさってくださったことについて、いろいろなことが挙げられていて、「だから私は乏しいことはない」と、ダビデは言い切っているわけです。
イエス・キリストの存在は絵空事ではないように、ここに書かれていることも、単に格好をつけて言っていることではないんですね。
あなたも本当に受け取ることのできる「乏しいことがない」・・ということがあるのだとダビデは証言し、聖書はそれを記載しているわけです。
そしてその「乏しいことがない」ことの原因は「主」という存在であり、それは求めれば受け取ることのできる、「実存」のお方なんですね。
ですから呼べば聞かれているんです。探せば、主はあなたの方に目を向けられるんです。
" 求めなさい。
そうすれば与えられます。
探しなさい。
そうすれば見出します。
たたきなさい。
そうすれば開かれます。"
マタイの福音書 7章7節
見出すことができるから、このことが書かれているんですね。
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
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詩篇23篇
主は私の羊飼い。
私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。
詩篇 23篇1~6節
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