G-Cafe 聖書のことば #119
【福音その5】赦すために残された者
" その日、その時──主のことば──
イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない。
わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」"
エレミヤ書 50章20節
この福音のシリーズ。今回は「赦すために残された者」です。
その日、その時、、イスラエルの咎を探してもそれがない。ユダの罪も見つからない、、とエレミヤは語っています。
そして主は、その人たちを「わたしが残す者」だと言っています。そしてその者は「わたしが赦す」から、咎を探してもそれはないし、罪も見つからない・・というのです。
ユダの民の罪により、神はバビロン帝国を使ってユダを滅ぼされました。
イエス様が「わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。」と言われた通りで、イスラエルの民はその結末を自ら招いてしまったわけです。
ユダの民はボロボロになりますが、その中に「残された者」がいて、その者の咎は探しても見つからないというのです。彼等は神のさばきの中から残された者、即ちさばきにあわずに救い出された者で、しかも彼等は神の目から見て咎が見いだされない、「雪のように白い」(イザヤ1:18) 者となるというのです。
人はイエス・キリストを信じることによって、神はその人の上にキリストの流された血を認め、「咎は認められない者」とされるんですね。それ以外に「罪がない」という可能性など、どこにもありません。
イエス様を十字架にかけたのは他でもないユダヤ人ですが、イエス様を信じた人もユダヤ人から起こされてきたわけです。
「罪が見つからない」と言われるユダヤ人がいるとしたら、まさにこのユダヤ人たちを置いては他にいません。彼等こそが「わたしが残す者」であるわけです。
そして現在、メシヤニックジューといわれる、クリスチャンになるユダヤ人が急速に増えていると言われています。まさに本家本元の民が、本当のキリストに立ち返って来ているというわけです。彼等も正真正銘の「残された者」であるわけです。
ですから、ここでエレミヤが言っている「その日、その時」・・それは、イエス・キリストによる救いの福音が宣べ伝えられ始めてから「終わりの日」に至る、今の時代だということになるわけです。
そしてこれはイスラエルだけではなく、全世界のすべての民族に与えられた救いの「型」でもあるんですね。
イエス・キリストを信じる者は、滅びの中から「残されて救われた者」なんです。
聖書の救いのメッセージは、滅びる者の中からの救いなんです。
滅びという決定事項からの救いなんです。
だから「救い」なんですね。
福音・・さらに続きます。
God Bless You !