G-Cafe 聖書のことば #124
【福音その9】十字架1
" 私たちは知っています。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、
罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。"
ローマ人への手紙 6章6節
前回は、神に近づこうと思っても、近づくことができない者の話でした。パウロは自分のことを「みじめな人間」で「死のからだ」を持つ人間なのだと言って、罪人の本来の有様を言い表しました。
人は「生まれながらの罪人」なのだというのです。
「義人はいない。ひとりもいない」「彼等は平和の道を知らない」「彼等の目の前には、神に対する恐れがない」と聖書に書いてあるではないか、とパウロは言っています。(ローマ人への手紙3:10-18)
自分が罪人であるということを知るということほど、難しいことはないかもしれません。
罪とは、まことの神から離れていることです。それは神を否定すること。そしてその心から出てくるのは、人を傷つけようとする思いなんですね。
その性質は、余裕のある時にはかくれています。しかし、気持ちの余裕がなくなると、返って自分の行動原理が見えてきたりします。
今人々は、突如としてこの閉塞した世界に閉じ込められましたが、そこで徐々に現れてくるのがそのことなんですね。
私たちは教育によって、してはならないことを教わり、それを守り、それを実践し、平和な関係を実現しています。しかし、それが崩れ始める時、人は人を責め始めます。
私たちは実は「みじめな人間」で「自己中心」という王座に座っている者なんですね。
私たちは「助け」がないと、ここからは抜け出られない者なのだと、聖書は言っているわけです。そしてそれは、「罪の奴隷」という状態だというのです。
パウロはそのような私たちのことを「古い人」という言葉で表現しています。そしてその古い人は、十字架につけられる必要があるというのです。
それは生まれながらの肉の性質なのだから、釘付けにしてしまわないことには、それはいつまでもうごめき続けるのだと言っているわけです。
私たちは「罪のからだ」を持つ者で、実にキリストの十字架はそのためなのだ、というのが今日のみことばです。
そう言われて、なんとなく ??? となる方もおられることと思います。
だって、キリストが十字架にかかったことと、自分と何の関係があるの? と思うからです。
イエス・キリストは、直接私たちの内に入って、私たちに関わってくださる方なんですね。そしてそのことは、人がその存在を信じて、自分の内にお迎えすることによって起きるのです。
その時に、キリストの十字架は自分の中に実現するのです。
God Bless You !
(神様の祝福がありますように!)