G-Cafe 聖書のことば #127
【福音その12】信じる者はだれも
前回の箇所と同じ、その前半をもう一度見てみます。
" 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。"
ローマ人への手紙 6章5節
前回、パソコンのアプリの話をしました。信じた者は「聖なるアプリ」がインストールされているパソコンのようだ・・と。
イエス・キリストは、肉のからだを釘付けにして、死に至り、そしてそこからよみがえられて、天に上られ、今も生きておられる方です。
この方がそっくりそのまま、信じる者の内にいのちとして入ってくださる、という話です。
しかし信じた者は、内に入ってくださった方をどのように受けとめるか、それはその人次第なんですね。
アプリは入っているんだけど、使わないで忘れてしまったら、そのアプリは眠ったままです。
前回はそのことに触れたわけですが、それ以前に肝心なことがあることを、はっきり伝えていなかったように思います。
それは「信じることで」その聖なるアプリがインストール(取り込まれて)されるのだ、ということです。
要するに、イエス・キリストを救い主として信じて、心の内にお迎えするなら、その人の内には「イエス・キリスト」という方がいのちとして入って来られ、「キリストの死」と「キリストの復活」がその人の内に現実のこととなる、ということです。
イエス・キリストを心にお迎えすということは、イエス様はあなたの罪、すなわち古い自分のために死んでくださり、実際に死んで、三日ののちによみがえってくださったのですから、そのことがあなた自身のこととして起こり始める、ということなのです。
昭和の時代にはクリスマスシーズンになると、救世軍が街角で生活に困窮している人たちのための募金活動「社会鍋」をする姿をよく見かけたものです。その時に歌われていた賛美歌・・。
全く信仰を持っていなかった私にもその歌詞が頭に残っています。それは・・
ただ信ぜよ ただ信ぜよ
信ずる者はたれも 皆救われん
これが、「古い自分をどうすることもできない私たち」に神が与えて下さった救いの道なんですね。
God Bless You !
(神様の祝福がありますように!)