G-Cafe 聖書のことば #185
山上の垂訓・第4回
【地を受け継ぐ】イエス様のことば 10
" 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。"
マタイの福音書 5章5節
この「幸いな者」シリーズを、キリストに従おうとする者への言葉として、その意味を見てきました。
キリストに従う弟子たちの中には、おそらく柔和な者もいれば、気性の荒い者もいたのだと思います。彼らに向かってイエス様は、「柔和な者は幸いです」と言われました。そしてその理由は、「地を受け継ぐから」だというのです。
聖書の中で「柔和な者」を探して見ますと、イエス様ご自身が「わたしは心が柔和でへりくだっている」と言われています。
"わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。" マタイの福音書 11章29節
イエス様は、柔和を「わたしから学びなさい」と言われたわけです。くびきとは家畜の首にはめて家畜をコントロールする横木のことです。ですからイエス様のくびきを負うというのは、イエス様のコントロール下に置かれるということです。そしてそのくびきの本質は「柔和」「へりくだり」だというわけです。
聖書には「義人はいない。一人もいない」(ローマ3:10) と書かれています。全ての人は神から離れて、心の中は自分を守ろうとすることが最優先の「罪人」だというのです。
そこに柔和というのはありえないんですね。でも、世の中にはクリスチャンでなくても柔和な人は結構いるように見えるのですが、聖書はそこのところを見抜いているのではないでしょうか。
でもイエス様のくびきを負うなら「柔和な人」になって、たましいに安らぎが来るというのです。
そしてここでは「柔和な者」は「地を受け継ぐ」と言っているわけです。
私はここでハタと思ってしまうのですが、クリスチャンが柔和な者とされ、地を受け継いだという事例は、これまでにあるのでしょうか。それとも将来のことなのでしようか。
この世はサタンの支配下にあると書かれています。(エペソ2:2) そして教会というのは、サタンの支配から神の支配地として奪回したところです。それはあくまでもその一部を奪い取ったのであって、受け継いだわけではないんですね。
また、クリスチャンは地上では旅人であり、寄留者である(ヘブル11:13) とあります。これも「地を受け継ぐ」という言葉にはそぐわないことです。
だったらクリスチャンが地を受け継ぐとはどういうことなのでしょうか。
そのような出来事を聖書の中に探し求めると、一つだけこんな箇所があります。それは黙示録20章に記されている「千年王国」においてです。
" 彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。 " (黙示録20:4)
ここで「彼ら」というのが全てのクリスチャンであるかどうか、それは私には判断できません。彼らは「イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。」その人たちだというのです。
千年王国はサタンが縛られてしまって、キリストと共に治める者たちに引き継がれた国です。それならば「地を受け継いだ」と言えるのではないでしょうか。
ただし・・、私はこのような解釈は聞いたことがありません。ただみことばから与えられたこととしてここし記したいと思います。
どちらにしても、「柔和な者」となるためにキリストのくびきを負って歩む者は、「地を受け継ぐ」ということがどういうことなのかを知るようになる・・、それだけは確かなことのようです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
山上の垂訓・第4回
【地を受け継ぐ】イエス様のことば 10
" 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。"
マタイの福音書 5章5節
この「幸いな者」シリーズを、キリストに従おうとする者への言葉として、その意味を見てきました。
キリストに従う弟子たちの中には、おそらく柔和な者もいれば、気性の荒い者もいたのだと思います。彼らに向かってイエス様は、「柔和な者は幸いです」と言われました。そしてその理由は、「地を受け継ぐから」だというのです。
聖書の中で「柔和な者」を探して見ますと、イエス様ご自身が「わたしは心が柔和でへりくだっている」と言われています。
"わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。" マタイの福音書 11章29節
イエス様は、柔和を「わたしから学びなさい」と言われたわけです。くびきとは家畜の首にはめて家畜をコントロールする横木のことです。ですからイエス様のくびきを負うというのは、イエス様のコントロール下に置かれるということです。そしてそのくびきの本質は「柔和」「へりくだり」だというわけです。
聖書には「義人はいない。一人もいない」(ローマ3:10) と書かれています。全ての人は神から離れて、心の中は自分を守ろうとすることが最優先の「罪人」だというのです。
そこに柔和というのはありえないんですね。でも、世の中にはクリスチャンでなくても柔和な人は結構いるように見えるのですが、聖書はそこのところを見抜いているのではないでしょうか。
でもイエス様のくびきを負うなら「柔和な人」になって、たましいに安らぎが来るというのです。
そしてここでは「柔和な者」は「地を受け継ぐ」と言っているわけです。
私はここでハタと思ってしまうのですが、クリスチャンが柔和な者とされ、地を受け継いだという事例は、これまでにあるのでしょうか。それとも将来のことなのでしようか。
この世はサタンの支配下にあると書かれています。(エペソ2:2) そして教会というのは、サタンの支配から神の支配地として奪回したところです。それはあくまでもその一部を奪い取ったのであって、受け継いだわけではないんですね。
また、クリスチャンは地上では旅人であり、寄留者である(ヘブル11:13) とあります。これも「地を受け継ぐ」という言葉にはそぐわないことです。
だったらクリスチャンが地を受け継ぐとはどういうことなのでしょうか。
そのような出来事を聖書の中に探し求めると、一つだけこんな箇所があります。それは黙示録20章に記されている「千年王国」においてです。
" 彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。 " (黙示録20:4)
ここで「彼ら」というのが全てのクリスチャンであるかどうか、それは私には判断できません。彼らは「イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。」その人たちだというのです。
千年王国はサタンが縛られてしまって、キリストと共に治める者たちに引き継がれた国です。それならば「地を受け継いだ」と言えるのではないでしょうか。
ただし・・、私はこのような解釈は聞いたことがありません。ただみことばから与えられたこととしてここし記したいと思います。
どちらにしても、「柔和な者」となるためにキリストのくびきを負って歩む者は、「地を受け継ぐ」ということがどういうことなのかを知るようになる・・、それだけは確かなことのようです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)