G-Cafe 聖書のことば #187
山上の垂訓・第6回
【神のあわれみ】イエス様のことば 12
" あわれみ深い者は幸いです。
その人たちはあわれみを受けるからです。"
マタイの福音書 5章7節
キリストに従おうとする者への言葉「幸いな者」シリーズの5つめです。
もしあなたが「あわれみを受けるから幸いだ」と言われたとしたら、どのように思われますか。
私はあわれみを受けるような者ではないよ・・という思いがわいてきませんか。
イエス様は、ご自分のもとに集まってきた弟子たちに対して、そのように言われたんですね。
あわれみを受けるとは、どいういうことなのでしょうか。あなたは人からあわれみを受ける必要があるような者ではないと思っていませんか。そこには何かチャレンジ的な匂いさえ感じられます。
あわれみ深い・・。辞書を見ましたら、他人の辛苦に同情し、いたわろうとする心にあふれているさま・・とありました。ということは、そういう人は今度は、他人に同情され、いたわられるようになるから幸いです・・という文脈になるわけです。
毎回書いていますが、これはイエス様が弟子たちに言われた言葉です。ですから、弟子たちに「あわれみの心」を持つように奨励していることには違いありません。
イエス様は・・
" また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。" マタイの福音書 9章36節
・・とあります。
イエス様に従う彼らも、その心で多くの人々に接しなさい、ということになるわけです。
またイエス様はこのような例え話をされました。
" すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』" (マタイ25:40)
これは、小さい者に示すあわれみ、それは実はイエス様にしているのだという話です。そして、その者は神の御国を受け継ぐというのです。これはあのマザーテレサの基本理念でもありました。
その者が受けるあわれみ・・それは天の御国を受け継ぐ者となることだというのです。
もともと私たちは、またイエス様のもとに集まってきた弟子たちも、神の前にふさわしい者ではありません。聖書はすべての人は罪人だと言っています。そしてすべての人は神に背を向けて、自分中心という、保身が基本の歩みの中で歩んでいる者だというのです。その者を神はご自分のものとされ、神中心に歩む者と変えられるというのです。そのためにキリストは十字架にかかられた・・。
私たちが受けるあわれみ、それは、そんな私たちが神のもとに帰るための御子キリストが受けたあの苦しみ・・他に何かあるでしょうか。
ここで言っている「あわれみ深い者が受けるあわれみ」・・それは神のあわれみなんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)