G-Cafe 聖書のことば #188
山上の垂訓・第7回
【神を見る者】イエス様のことば 13
" 心のきよい者は幸いです。
その人たちは神を見るからです。"
マタイの福音書 5章8節
心のきよさとはどういうことでしょうか。
聖書を見ると「聖」ということばは千回以上出てきます。なんとなくその意味をまとめてみると、それは「神の側に聖別された」というようなイメージになります。
ということは、心のきよい者・・それは、その心が神の目から見て、いつも神の側に立っている者というような意味になるのでしょうか。
それは神の御心をいつも慕い求める心。神の喜ばれることを喜ぶ心。そのような心を持つ者・・ということになます。
その人たちは幸いです。その人たちは神を見る・・と、今日のみことばは言っているわけです。
しかしヨハネは、福音書でも手紙の中でも「いまだかつて神を見た者はいない。」と言っています。ならば、神を見るとイエス様が言われたその言葉には、どういう意味があるのでしょうか。
イエス様は、「わたしを見た人は、父を見たのです。」と言われました。
ところがイエス様を見ている弟子たちにはそのことがわかっていなかったことは明白です。しかしイエス様が十字架にかかられ、死んでよみがえり、天に上られた後に、弟子たちの上に激しく聖霊が降ってから弟子たちは、このイエス様の上にある神の栄光を見るようになったんですね。
弟子たちはその時に初めて、イエス様の「わたしを見た人は、神を見たのです。」ということの意味がわかったのです。
こうして見ると、神を見るとは「イエス・キリストが神であるということを知る」ということであることがわかります。
心がきよい・・。それは、いつもイエス様を見上げ、イエス様の言われたことに心をとめ、イエス様に従おうと心に決めるということなんですね。
その人たちは、イエス・キリストの上に神の栄光、すなわち神そのものを見るようになるというわけです。
では、私たちは果たして「心のきよい者」なのでしょうか。そうでなかったら、どうすれば心のきよい人になれるのでしょうか。
弟子たちの上に聖霊が激しく降ってから、彼らは聖霊に満たされる人になりました。それ以来、彼らの心はもっぱらイエス様の方を見る者となりました。それまで彼らは恐れて戸を閉めて隠れていたんですね。その心はイエス様ではなく恐れの方に向けられていたわけです。
私たちは、自分の心を一生懸命イエス様に向けようと努力しても、それがなかなかできない自分に出くわします。そんな私たちにイエス様は、聖霊を叩くようにして求めなさいと言われました。そうすれば聖霊は与えられることを保証しておられるんですね。
" ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」"
ルカの福音書 11章13節
結局「心のきよい者」とは、聖霊をいつも、これでもかというほどに求める者で、その人は幸いだたということになります。イエス様は、聖霊は求めるものだと言われているんですね。
だったらそれに従う・・。従うというのは、イエス様を愛しているという意味です。
イエス様は、そのような人は幸いな人だと言われたわけです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)