G-Cafe 聖書のことば #189
山上の垂訓・第8回
【平和をつくる】イエス様のことば 14
" 平和をつくる者は幸いです。
その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。"
マタイの福音書 5章9節
今日のテーマは「平和をつくる」です。
世界平和という言葉を、最近はあまり聞かれなくなりました。最近の世の中は、平和を叫んだところで「焼け石に水」の様相を呈しているように見えます。
人の世界には常に戦いがあります。しかし聖書の言う「罪人」は、神から離れて、自分の力で自分を守るという基本的な姿勢があるから、そこに戦いがあるのは当たり前といえば当たり前なんですね。そして、すべての人が罪人だというのです。
そのように考えると、平和を作るというのは並大抵のことではないということが見えてきます。
世にあって、平和は作れるものなのでしょうか。こうして世の中を見渡す限り、どんなにしても人の力で平和はつくれないと思ってしまいます。
いや、だからこそ、がんばりなさい・・という考え方もありますが、神の目から見た「人」の心は、それこそ見せられるようなものではなく、綺麗事など言ってられないというのが正直なところなのではないでしょうか。
私たちは、平和を作ろうと思うならまずあなたの心を正しなさい・・と言われてしまうような者なんですね。
イエス様の弟子たちも例外ではないわけです。その弟子たちにイエス様は「平和をつくる者」という言葉を投げかけられました。
平和を作るという意識は大切なことだということは示されています。しかしそれは、それを作る力など私たちのうちにはない・・そのことも織り込み済みでイエス様は語られているのではないでしょうか。
ですからイエス様が言おうとされていることは、そこに平和があるように「わたし」に願い求め、そこに神が立ち上がってくださるという場面を招く者となりなさい、ということなのではないでしょうか。
私たちに「平和を作る」力など、どこにもないのです。平和のないところに行って、あなたは平和をつくれますかと問われたら、それは家庭の中でも国のレベルでも、お手上げなのではないでしょうか。
イエス様は言われました。「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27ほか)
だから、私たちにできることは、そこに神をお招きすることなんですね。
もしそのようにして平和をもたらす人がそこにいるのだとしたら、その人は言うまでもなく「神の子」と呼ばれるわけです。
ですから、ここで言われている幸いな者とは、平和をつくろうとする時にも神に依り頼む者・・ということになりそうです。
旧約聖書は戦争の歴史でもあります。しかし主なる神を信じ、他のものに依り頼むことなく、主にのみ従うところにいつも「平和」があったんですね。
平和をつくるのは神なんです。ですから私たちは、神の陣営に属する者にならなければ「平和をつくる者」とはなり得ないんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)