G-Cafe 聖書のことば #192
山上の垂訓・第11回
【聖書の成就】イエス様のことば 17
" わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。"
マタイの福音書 5章17~18節
弟子に対しての山上の垂訓。初めの8つの「幸いな者」は、イエス様の弟子としての資質のことだという観点から見て来ました。その結論は、この世で「愛の行い」をして、人々が父なる神をあがめるようにしなさいということでした。
そしてここからイエス様の話の矛先は、パリサイ人や律法学者の方に向けられて来ます。この後に出てくる有名な話、例えば「右の頬を打たられたら、左を出しなさい」などは、全てこの土台、すなわちパリサイ人や律法学者たちを意識して言われているのだという視点で見ると、イエス様がこの話をしている時のお気持ちに触れることができるような気がします。今日の箇所はそのイントロであるわけです。
実は、イエス様が話される大半のことは、このパリサイ人や律法学者というユダヤ人たちの指導者層に対する厳しい糾弾という意味合いが含まれているんですね。そしてこの糾弾の姿勢は「上席を選ぼうとする」という、指導者になれば人の上に立とうとしたがる「人」の傾向に対して、これからイエス・キリストを宣べ伝えるであろう弟子たちに対するいましめでもあったわけです。
当時のユダヤ人にとって、律法を守るということはとても重要なことで、それに反するということは神様に対する反逆に等しい行為とみなされました。安息日には働いてはならないというのもそのひとつです。ところがイエス様が色々な奇跡のわざをされた時、それが安息日だったというので、パリサイ人や律法学者たちはイエス様を「神に反逆する者」とし、そのとどのつまりがあの十字架だったわけです。
ところがイエス様は、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」と言われたのです。
ここでイエス様が言われた律法とは、モーセが受けた十戒を含む創世記に始まるモーセ五書のことです。そして預言者とはその後に出てくるイスラエルに対して警告を発した多くの預言者たちのことです。すなわち「律法と預言者」とは旧約聖書全体のことを指しているんですね。
ところが当時のユダヤ人の生活を支配していた律法は口伝律法という、生活上のこまごまとした、あとから付け加えられた規則でした。安息日は働きをやめて休む日だというところから、重たい物を持って歩くことも禁じるという、ただ生活を縛るだけのものになっていたわけです。そんな彼らは安息日に病人を癒すイエス様を「安息日を破る不遜な者」だとしたのです。ところが人々は安息日にも牛やろばの世話をし、水を飲ませたりしていながら、それは問題にしていませんでした。
イエス様の指摘はこうです。あなたがたは神に従っていると言いながら、その心は神から離れ、こまごまとした規則に縛られるだけの者になってしまっているが、聖書(旧約聖書)に記されていることは、主なる神だけを神とし、愛せよということで、あなたがたは実はそこから大きくそれてしまっている・・ということなんですね。
そしてさらにイエス様は聖書に記されていることについて、「天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」と言われたのです。
それは、聖書の全ては成就するということであり、それは天地が消え去る最後の最後まで、きっちりその通りになるんだと言われたんですね。
それは一言で言えば、キリスト(わたし)は今ここに来て、終わりの時にも再び来るのだということです。
わたしが来たのは「聖書が成就するため」なのだ。そこから目を逸らせようとするすべてのことに気をつけなさい・・と、これがイエス様の教えの始めなんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)