G-Cafe 聖書のことば #239
【人の子が来るとき】イエス様のことば 64
" 一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。
まことに、あなたがたに言います。
人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。"
マタイの福音書 10章23節
今回のテーマは「人の子が来るとき」。その意味を見てみたいと思います。
イエス様は、迫害されたら他の町へ逃げなさいという話をされ、それに関連して「人の子が来るとき」のことを話されています。ですからこの迫害の話は、その時「人の子が来るとき」のことだということがわかります。
イエス様は「人の子が来る」とか「終わりの日」などの言葉を使われることがありますが、その意味を私たちは、漠然とした未来のことのように受け止めてしまいがちです。しかし聖書を読むと、これらの言葉の意味がかなり具体的に書かれていることがわかります。
イエス・キリストがベツレヘムでお生まれになり、この地上での働きを終えて天に帰られるまでのことを「初臨」と言っています。すなわち、キリストが地上に来られた第一回目だというわけです。そしてイエス様が天に帰られたのち、再び来られる「再臨」があるというのです。
実は聖書を見ると、再臨と思われる出来事が二つあります。
ひとつはキリストが雲に乗って来られ、すでに死んでいたすべてのキリスト者をよみがえらせ、その時に生きているすべてのキリスト者とともに一挙に空中に引き上げる「携挙」(けいきょ) という出来事。そしてもうひとつは、黙示録にある大艱難時代の最後にキリストに敵対し神を冒涜する全ての者を「子羊の御怒り」によってさばかれる「地上再臨」。
ですから一言で再臨と言っても、クリスチャンが神のもとに引き上げられるという喜びの時と、御怒りによるさばきの日との二つがあって、それは全く違う出来事なんですね。ひとつは雲の上で、もうひとつは地上です。でもそれは「終わりの時」に関連しての再臨だというわけです。
さて、イエス様は「福音が全世界に宣べ伝えられて、それから終わりの時が来る」(マタイ24:14) と言われました。ところがここでは「あなたがたがイスラエルの町々を巡り終える前に」人の子は来ると言われています。
一見矛盾するように見えるこの両者を、共に成立することとして読むならば、見えて来ることがあります。
それは、福音が地の果てまで伝わって終わりの時が来るそのとき、肝心のイスラエルすなわちユダヤ人たちには福音は伝わりきっておらず、その段階で携挙があるということです。
イエス様が来られ空中に引き上げるのは、イスラエル民族ではなくクリスチャンなんですね。
現在、ユダヤ教を死守するユダヤ人の中から、イエスこそまことのキリストだと気がついてクリスチャンになる人が急速に増えています。
その人たちはすでにクリスチャンですから、携挙の際には引き上げられるのですが、その時に選民であるイスラエル民族=ユダヤ人の中には、依然としてイエスをキリストとして認めていない人たちがいるというわけです。
そしてこの残されたユダヤ人たちが7年間の大艱難時代にさらにら救われていくのだとすると、あの難解な黙示録の出来事の展開が見えて来ます。
それは、大艱難時代に突入すれば聖書の預言が今よりはるかにリアルに見えて来て、聖書に精通するユダヤ人たちがこの段階になって急速にイエス・キリストを信じて救われる人々が出てくる、という展開です。
旧約聖書がキリストの初臨をかなり具体的に預言しているように、再臨の預言も具体的にしているんですね。そしてそれらは、イエス様が言われたことをはじめ、使徒たちが書いた手紙や黙示録とぴったり一致するのです。
聖書はこれから後の事、そして終わりの日のこと、さらにその先の永遠に至るまでのことをはっきり記しているんですね。
天地創造から終わりまでの全てを支配され「わたしは初めであり、終わりである」と言われる神を畏(おそ) れよというのが、その聖書の最初のメッセージです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)