G-Cafe 聖書のことば #243
【家族のいのち】イエス様のことば 68
" わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。"
マタイの福音書 10章37~39節
今日のみことばは、34節の「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました」という、ちょっと怖い話からの続きです。一羽のスズメの話が、もっとリアルになってきた感じですね。
今日のテーマは「家族のいのち」です。
イエス様は平和ではなく剣をもたらすために来られたという話の流れからすれば、人がイエス様を救い主としていただくと、家の者はその人の敵になるということになります。
あなたがイエス様のものとなったなら、家族はあなたに違和感を感じるようになるわけです。
そのときにイエス様は、「わたしよりも家族の方を愛する者は、わたしにふさわしい者ではない」とおっしゃるのです。でももしそうなったら家族はあなたに捨てられたと思うかもしれません。自分よりもイエスを愛する者だと感じるからです。
ここで忘れてならないのは、家族は「滅びゆく魂」という状態であるということです。それはイエス様に敵対する立場です。まことの神から離れているのですから・・。
ですから家の中では異質な両者が向き合うことになるわけで、剣がもたらされるというのは、言って見れば当然のことです。
しかし私たちはその家族を愛しています。しかも滅びゆく家族をそのまま見過ごすことなどできない。ところが愛する家族は敵として自分の前に立っている・・。そのジレンマの中に私たちは立たされるわけです。
ここで思い起こさなければならないことは、私たちはどういう者になったのかということです。私たちクリスチャンは、イエス様の十字架のあがないを信じて、イエス様を心に迎え入れ、まことのいのちである神のもとに帰る者となった・・、すなわち完全な赦しと永遠のいのちをいただいたんですね。そしてそれによって、神が私たちに示されたことがあります。
それは「背く者への愛」です。
私たちは、イエス・キリストという存在に出会う前は、神に敵対し、神を信じようともせず、神に背く者でした。しかし神は、そのようにして敵対する私たちを救い出すために人の形となって、しかもそのいのちをささげて救いの道を開いてくださったのです。これが「背く者への愛」です。
私たちはそんな愛のことなど、想像をしたこともありませんでした。しかしキリストにある者と変えられたとき、今度は私たちが「その愛」をもって家族に向き合うべき者となっているわけです。
要するに、家族よりイエス様を愛せというのは、剣をもって迫る家族に剣で対峙するのではなく、いのちを差し出すほどの愛をもって家族に向き合いなさいという意味なんですね。そして言うまでもなく、それはイエス様抜きではできないことであるわけです。
イエス様は言われました。「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」と。そして「自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。」と言われたのです。
イエス様に従うには、私たちが自分のいのちにつかまっていてはだめなんですね。ともにいてくださるイエス様によって、イエス様の十字架の死にあずかる時に、人は初めて「敵を愛する者」と変えられるんですね。なぜなら自分が死ねば、そこによみがえりのイエス様が立たれるのですから。
そのようにして、敵対していた家族はあなたを通してそこにキリストとその愛を見ることになるわけです。これが「自分の十字架を負ってイエス様に従う者」が見ることになる神の奇跡になんですね。
家族のいのちは、イエス様にかかっているのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)