G-Cafe 聖書のことば #244
【キリストの弟子だからということで】イエス様のことば 69
" まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」"
マタイの福音書 10章42節
イエス様は弟子たちに、遣わされる者としての心得を話し始められました。それがこの10章です。
この話は弟子たちにとどまらず、後のクリスチャンに向けて語られたことは明白です。
とにかく、イエス・キリストを標榜する者に敵対して立ち向かって来る人は必ずいる。そしてそれは命に関わることでもあるけれど、あなたは神のみ手の中で、永遠のいのちの保証の中で生かされる者とされたのだから、とにかく「硬く主に立って」いつでもどこにでも臨みなさい・・ということをかなり具体的に話されています。
そして今日の話がその最後になります。
今日のテーマは「キリストの弟子だからということで」です。
40節には「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」とあります。
それは、この弟子たちを受け入れるなら、それはイエス様を受け入れることであり、そのことはそのまま「まことの神」を受け入れるに等しいのだと言っているわけです。
そして今日の箇所では、キリストを宣べ伝える人が「小さな者」と表現されています。その小さな者を受け入れることが、まことの神を受け入れることにつながり、「その報いを失うことは決してありません」というのです。
注意しなければならないのは、その「小さな者」の意味が「わたしの弟子だから」というのがその条件だということです。
「わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人」というところをひとくくりで受け取る必要があるわけです。
語る者は小さな者であっても、その話はイエス・キリストのことで、その話を受け取る人・・それが「小さな者に一杯の水を飲ませる人」の意味であるわけです。そしてその人は決して報いを失わないというのです。
私たちは小さな者です、それはそれでいいんですね。でもその小さな者が「キリストの弟子だ」ということが伝わらなければならないというわけです。
今日の箇所は、小さい者に水を飲ませたから救われるという話ではないんですね。
小さな者がキリストの弟子だと伝わる・・、ここが最も重要なポイントだから最後に語られているわけです。
クリスチャンだったら自分が何者なのかをいつもはっきり言えること、それが求められていることで、出て行ってキリストを宣べ伝えるに際して基本的に必要なことなのだというわけです。
祈り・・「主よ、わたしがどこにあっても、あなたにある者であることを言い表すことができますように、力を与えてください。」
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)