" すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」"
マタイの福音書 15章26節
ここに登場するのは「カナン人の女」です。それは「異邦人」という立場の人でした。
その人がイエス様にすがりつくようにして、娘の悪霊からの解放を願っているのに、イエス様はとても冷たい応答をされます。
それが今日の箇所です。言うまでもなく「子どもたち」とはユダヤ人で、子犬とはそれ以外の異邦人のことです。
今日のテーマは「イエス様のプロデュース」です。
イエス様はご自分の力を異邦人のために使うことを、「子どもたちのパンを取り上げる」ことだと表現されました。私たちだったら、イエス様がそんなケチなことを言わなくても、無限の力をお持ちなのだから、いくらでも癒すことはおできになるだろうに・・と思ってしまうのではありませんか?
私もそう思います。だったらなぜイエス様はこんなことを言われて、女に冷たい態度を取られたのでしょうか。
それは、イエス様はこの女に対して「困難な状況」を敢えて作られたと考えるのが妥当なのではないでしょうか。要するにわざと冷たくしたんですね。イエス様は神ですから、この女をいやさないという結果にはならないことは初めからご存知だったわけです。でも、冷たくされた・・。それはこの人からあることを引き出したかったんですね。
それは、信仰の言葉です。女はイエス様の言葉に対して「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」と言ったのです。
それは、自分は神に顧みられている民ではないことはわかっていますが、神の家に住まうことを許されている子犬だと言ったのです。それは自分は異邦人だけれど、このイスラエルの神をまことの神と信じ、その神にすがる者です・・という信仰の表明でした。
聖書にはイエス様が手放しで喜んだ出来事がいくつか出てきますが、それらはみな人々の「信仰」を見てのことなんですね。しかもそれはいつも「異邦人の信仰」なんです。
イエス様のこの女とのやり取りは、ユダヤ人たちに聞こえるように言っているように、私には思えてしまいます。
「あなたは神の民で、すべての祝福を受けるべき民なのです。この女を見て自分の信仰をもっと明確にしなさい」・・と。
女は、ユダヤ人に対して、見事な正解を言い放ちました。
小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます・・、それは、父なる神はすべての民に対して憐れみ深く、求める者を決して見放されるお方ではないということを、ユダヤ人の前で宣言したわけです。
イエス様は喜ばれました。そして、娘をすぐにいやさたのです。
イエス様はこの出来事をプロデュースされたのだと、私は受け止めています。
この出来事でも、愛なるイエス様の姿が見えて来るんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)