"イエスはそれに気がついて言われた。「信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。
まだ分からないのですか。五つのパンを五千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。
七つのパンを四千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。
わたしが言ったのはパンのことではないと、どうして分からないのですか。パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい。」"
マタイの福音書 16章8~11節
イエスはそれに気がついて・・と書かれていますが、何のことかというと、「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい」というイエス様の言葉に対して弟子たちは、自分たちがパンを用意していなかったことをイエス様は責めておられるのだと思って議論を始めた・・、そのことに気がつかれたということです。
彼らは異邦人の地に行く時には、異邦人が焼いた汚れたパンを食べることのないように、自分たちで焼いたパンを持参していました。それを彼らは忘れていたというわけです。それで彼らは、イエス様がパリサイ人やサドカイ人たちのことについて話されているのに、全く関係のないことで議論を始めました。それは恐らく、誰の責任でこうなったのか・・というようなことだと思います。
イエス様は以前に「口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。」 (15章17~18節) と弟子たちに教えておられます。弟子たちはそれをすっかり忘れ、そのこととは真逆の議論をしていました。
食べるパンは、異邦人が焼くものであっても、それで汚れるわけではないのに、まだ弟子たちはそんな議論をしていたというわけです。
弟子たちはみな、パンを持ってこなかったことの責任は自分にもあったことを、薄々感じていたのではないでしょうか。
人は何か後ろめたいことがあると、そのことを中心に物事を考えてしまって、肝心の話の焦点が全く見えなくなってしまうんですね。
話を聞けなくするもの・・それは「罪責感」だということが言えるのではないでしょうか。
世の多くの人は「あなたは罪人だ」と言われると、その話に過剰に反応します。その話が「それが全面的に赦されるのだ」という話であるのに、その前の段階でその話を拒んでしまうんのです。
それは「自分を守る」という当然の姿であるわけですが、実はそれこそが自分は罪人であることを告白していることに他ならないわけです。
「信仰の薄い者たち」というその意味は、「自分のことではなくて神のことを考えよ」ということなんですね。あなたは自分の罪を弁護する必要はないのです。
あなたを愛する神という存在にあなたの目を向けるというところから、信仰は始まります。
その時に初めて、イエス様の言葉の真意が心に入ってくるんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)