" イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。」"
マタイの福音書 20章22節
イエス様がこれから十字架にかかることになるという話をした時に、ヤコブとヨハネの母がきて、息子たちが天の御国で最高の地位「キリストの右と左に座る者」となることを願います。
尋ねたのは母親なのに、イエス様がお答えになられた相手は「あなた方」となっています。
そしてその「あなた方」にイエス様は尋ねます。「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」と。すると「彼ら」は「できます」と答えたと書いてあります。
話の流れからいえば、できますと答えたのは二人の息子、ヤコブとヨハネということになり、彼らもその母と同じ思いだったということが推測されます。
息子たちは母に向かって「お母さん、そんなことを言うもんじゃないよ」とは言わなかったんですね。
その彼らにイエス様はまず、「あなた方は自分が何を求めているのかわかっていません。」とお答えになりました。
御国で一番偉い人ついて、先ずその考え方から改めた方がいいですよ・・と言われたわけです。
この後イエス様は、他の十人の弟子たちも呼び寄せて、次のように言われました。
「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」(27-28節)
クリスチャンは、イエス様と共に歩む者となります。それは言ってみれば「イエス様を慕い求める歩み」です。イエス様が喜ばれることを行い、イエス様と共に歩んでいることを喜んでいるその自分を喜び、そこに垣間見える天の御国の光に励まされながら、永遠への思いを持って歩むんです。
それはまさに「映えある歩み」です。
しかしその歩みは「皆のしもべ」になる歩み。それも自分のいのちを人々にささげるという「イエス様のごとくに歩む」その歩みの中で実現するのだと、イエス様は言われているわけです。
自分をこよなく愛してくださるイエス様とともに、天国の前味(まえあじ)をちびちびと味わいながら歩んでいきたいと思いませんか。
「前味」・・その意味は「店に入る前に感じる ”美味しそうな雰囲気” 」だそうです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)