" イエスは答えられた。「まことに、あなたがたに言います。もし、あなたがたが信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります。
あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」"
マタイの福音書 21章21~22節
受難週の火曜日の朝。エルサレムに向かう途中、イエス様は道端の一本のいちじくの木を見つけ、行ってみたら葉があるだけで実がなっていなかった・・。
それでイエス様は、今後実がなることはないと宣言されると、その木は枯れてしまいます。
それはイスラエルに対する警告そのものでした。葉ばかり繁って実を実らせるのでなければ、その木は存在価値がないのだと・・。
実を実らせるとは、神の民として、主こそまことの神であることを「実」という形をもって表すということでした。ところが、その民は神が遣わされた御子に敵対してしまうわけですから、実を実らせるどころではありません。
弟子たちはそんなことには関係なく、ただイエス様が木を枯らしたということに目を奪われ、「どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか」と問います。
でもイエス様はここで、イスラエルへの警告の話ではなく、さらにその先のこと・・すなわち弟子たちが持つべき信仰についての話をされるんですね。
信じて祈り求めるものはなんでも受ける・・。
木に命じたら木が枯れ、山に命じたら山が海に入る・・、それは人が行う領域のことではなくて、神のみ手の中で、神の御意志の中で起きることを指して言っているんですね。
そしてあなた方はその神の働きに関与する人になるのだ、ということを言われているわけです。
この週、それは世界中に福音がのべ伝えられるという、弟子たちを含めたユダヤ人だれもが夢にも思っていなかったことがいよいよ始まろうとしている時でした。
そして実際に十字架にかかられたイエス様が死からよみがえられ、天に帰られた後、10日目に弟子たちの上に激しく聖霊が臨みます。そしてものすごい勢いで福音が世界中に広がって行ったのです。
イエス・キリストにある者は、山をも動かすという表現にふさわしい、神の御名によって事をなしていくという、この世とは完全に別次元の価値観と力をもって、神の手足となって働く者となる・・。
このことばはまさに、その初めの人たちに向けてのイエス様のおことばであるわけです。
あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受ける「ことになります」。
神のもとに帰り、神の奇跡を見ながら歩む者・・。これがクリスチャンなんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)