" その後、主人は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を彼らのところに遣わした。
すると農夫たちは、その息子を見て、『あれは跡取りだ。さあ、あれを殺して、あれの相続財産を手に入れよう』と話し合った。"
マタイの福音書 21章37~38節
十字架を目前にしたところで、イエス様のたとえ話が三つ続きます。今日の箇所はその二つ目ですが、これらの例え話はみな、ユダヤの指導者たちは神から良きものを受け取るにはふさわしくない者たちであるという指摘でした。
それでパリサイ人たちはイエスを何とか罠にかけて、亡き者にしようという相談を始めるわけです。すべての話が十字架に向けて並んでいます。
さて今日の箇所は、自分のぶどう園を農夫たちに貸して、収穫までを任せるという話です。
ぶどう園の主人は父なる神。そして収穫を受け取るために再三にわたって遣わされるしもべたちが預言者たち。そして「息子」がイエス様です。
主人は、この農夫たちすなわちイスラエルの民に自分の農園を任せたかったわけです。ところが彼らは主人が遣わした預言者たちを殺し、結局最後に遣わされた息子=キリストをも殺してしまうというわけです。
この農夫たちは、主人のものを自分のものにしたかったんですね。
それは結局、主人のものを本当に主人のものだとは思っていないということです。
この収穫すなわち富は、主人=神から預かっているものなんです。それを彼らは自分のものにしてしまおうと考えたわけです。
富は神の内にあるんですね。神が富そのものなんですね。それは私たちが所有するとか、そういうものではないのです。
私たちは、裸で来て、裸で天に帰る者なのです。
富を自分のものにしようとする・・。これって、究極の勘違いなんですね。
聖書に出てくる「罪」という言葉。その原語の意味は「的外れ」だというのですが、これこそ絵に描いたような的外れであるわけです。
神・・そこにいのちがあり、本当の富、宝があるんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)