" ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」"
マタイの福音書 22章45節
パリサイ人たち、またサドカイ人たちはイエス様をなんとか陥れようと、いろいろな質問を投げつけるのですが、イエス様のお答えはどれも反論のしようもないものでした。
そして今度はイエス様の方から彼らに質問をします。それは「キリストはだれの子ですか」というものでした。
「ダビデの子」というのは、キリストはダビデの子孫から生まれるという預言から「キリストの称号」そのものでした。ですから彼らは「ダビデの子です」と答えます。
そこで質問されたのが今日の箇所です。それは詩篇の中のダビデの賛歌についてでした。
" 主は私の主に言われた。「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」" 詩篇 110篇1節
最初の「主」は父なる神である主です。そして「私の主」とダビデが言っているのが「キリスト」を指すわけです。
父なる神はキリストに対して、「私の右の座についていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」と言われた・・とダビデは書いているのです。
イエス・キリストは、死からよみがえって天に上り、神の右の座につかれた方です。そして終わりの時には「敵」である悪魔を完全に滅ぼし、天の御国の王となる方です。
ダビデはそれをキリストの預言として書きとめたわけです。
パリサイ人たちの内には、「この方こそ来たるべきキリストかもしれない」という思いはあったのかもしれません。しかし彼らはイエス様の質問に何も答えることができませんでした。それは彼らは最初から決めていたからです。
イエスはキリストではない・・。いや、イエスがキリストであったら自分たちが困るんだ・・と。
彼らは自分を守るために神を殺すことに決めていたんです。
世の人々は自分を守るために、神を心の中から追い出しているんですね。
神は私たちの罪を指摘されるので、私たちは立場がなくなってしまうんです。
しかし神はそれをきっちりさばかれるお方です。
しかしそこから私たちを救い出すために、神はご自分の御子を送られた・・これが福音です。
神を心から追い出す必要はないんです。
いやそこに、罪の赦しを用意された神が待っておられるんです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)